息苦しい、あるいは生き苦しい。自己や社会に対するそんな葛藤は、多くの人びとにとって日常的な感覚の一つだろう。どんなに努力をしても成功は保証されず、どんなに能力があっても成功は保証されない。成功の機会はすべての人間にある程度「平等」に開かれているが、成功の可能性は一部の人間を対象として「不平等」に開かれている。しかも、成功の可能性に開かれた一部の人間が百人いたとして、その百人が必ず成功できるわけではない。百人のうちのより細かな一部が偶然的に成功を手にする。そして、悲惨にもその時々の「運」をつかみ取ったものだけが、勝者としての有限の快感(=喜び)を味わい、勝者としての無限の欲求(=依存)に苦しむ。ここで、成功をめぐる認識の矛盾がたしかに生じている。つまり、われわれ人間はいくら努力をしても、いくら能力があっても、成功そのものが確実に保証されないことで絶望を感じるのではなく、成功そのものに付き纏う快感と欲求をすでに自覚していることで絶望を感じざるをえないのだ。その意味で、成功はすべての個人にとっても、あるいはいかなる社会や時代においても、最もよい結果とは限らない。成功の真逆に位置する失敗が、実は人生の最もよい結果かもしれない。そもそも失敗は、何か努力をしたり、何か能力を発揮したり、自ら進んで得るものでない。可能な限り、避けたいものであろう。だからこそ、人間は偶然的に失敗を手にし、敗者としての有限の苦痛(=痛み)を味わい、敗者としての無限の向上(=自立)を実感することができる。現代社会の隅々には、このような成功することの「恐怖」と、失敗することの「希望」がはっきりと見て取れる。いま、もう一度わたし自身に問いたい。わたしにとっての成功って、失敗ってなんだろう。ときに成功は「閉塞感」をもたらし、ときに失敗は「解放」をもたらす。