――ここは何もない世界



美しい自然も水も大地も存在しない。



あるのは無限に広がる空間だけ。



そう、ここは人間が住んでいる世界ではない。
普通の人間では決して立ち入る事の出来ない場所。



この場所は一部の“人を超えた存在”が領域(テリトリー)としている世界なのだ。



その者たちはこの世界の事を「亜空間」と呼んでいる。



――この何もない亜空間の中で、一人の女性が歩いていた。


少し幼さが残るが、緑色の長い髪と大きな瞳が印象的な綺麗な女性だ。


同じ景色しかない、この世界を家の庭を歩くかのように、真っ直ぐな眼差しで目的地に向かって歩いている。


暫く歩いて、足を止めた彼女の目の前には、
地面に横たわる一人の男性。



男性は目を瞑っていた。



眠っているのか、それとも死んでいるのか、
それは分からない。だが穏やかな顔をしている。



年の頃は二十代半ばから後半ぐらいといったところか。



女性は男性の顔を覗き込み、声をかける。



「いつになったら目覚めるのかしら?眠れる亜空間の王子様」



屈託のない無邪気な笑顔。



男性なら、笑ったときにできる彼女の笑窪が可愛いと思うだろう。


「まっ、私から見たら、貴方は私の王子様には程遠いけどね!」



だが、男性は女性の声に全く反応を示さない。



「フフッ……」



そんな男性に対して女性は小さい声で笑った。



その笑みを境に、女性の顔が強ばる。



「動けない貴方は何もしないで、彼を強く惹きつけている。私がどんな想いをしているか貴方には分からないのでしようね…」



さっきまで無邪気な笑顔を見せていた女性とは、同一人物には見えないほど、暗くそして切ない表情。


今の彼女に心に湧き上がっているのは、
嫉妬のような黒い感情。



「私は貴方が憎い。でも皮肉なものよね。
貴方を心の底からは憎めていない」



女性はフゥ~っとため息を吐くと、
ゆっくりと立ち上がって空を見上げた。



空には周りと変わらない空間が広がっていた。



それから一体どのぐらいの時間が過ぎただろう?



無限に広がるこの亜空間は何も変わらない。



女性は男性の傍に腰を下ろした。



そしてそのまま一時も彼から離れる事をしなかった。



ただ時間だけが静かに過ぎていた。



この二人だけの時間が永遠に続くのでないかと思えた。



しかしここでこの亜空間に大きな変化が起きようとしていた。



コツコツコツと亜空間の何処からか
足音が聴こえてきた。



「帰ってきたようね」



徐々に近付いてくる足音の人物が誰なのか、
女性には分かっているようだった。



足音が聴こえてくる方向を見つめる。



女性の瞳に一人の男性の姿が映し出されていた。



男性の顔を見る女性の顔が、まるで、長い間離れてもいた恋人と再会したときのような顔になっていた。



女性の前に現れた男は彼女と同じく、
緑色の長い髪をした美しい男であった。


「皐月(さつき)」



男は女性の名を呼ぶとゆっくりと彼女に近付いていく。



「お帰り…。待っていたよ」



皐月と呼ばれた女性はゆっくりと近付いてくる男を待ちきれないのか、一気に駆け出して男に飛び付いた。



そして。色気のある声色で男の耳元で彼の名を呼ぶと、その肩に手をまわして甘えるように寄り添う。



しかしそんな皐月とは対称的に男は表情を一切変える事はなかった。



「悪いがちょっと離れてくれないか」



男は皐月の手を払いのけると、すぐに彼女から離れた。



男の態度に皐月の表情は曇る。



男はそんな皐月の気持ちなど気にする事なく、横たわる男性のもとへ。


腰を下ろして、後ろから抱きしめるように横たわる男性を起こした。



「長い間離れてすまなかったな」



その言葉は皐月ではなく、横たわる男性に向けられたものであった。



男は男性の髪を優しく撫でる。



その様子を皐月は切なそうに見守る。



「俺がここを離れている間に変化はなかったか?」


鋭い視線を皐月に向ける。



皐月は少し唇を噛み締めて男性に答える。



「…変化はないよ」



「そうか、ならいい」



皐月は男が抱いている男性を複雑な気持ちで見ながら心の中で強く男性に語りかける。


(早く目覚めなさい。
私にはなくて貴方にあるもの…。貴方が彼を強く惹きつけているものが一体何なのか、私はそれを知りたい)



男は皐月に別の話題を話し始める。



「人間界に行っていた奴らが、どうやら戻ってきたようだ」



男の言葉が何を意味しているのか皐月は直ぐに理解した。



「へ~、思ったより早かったわね。それで彼らは目的は果たして戻ってきたの?」



「いや、“奴”を連れて帰っていないところを見るとどうやら失敗してきたようだ」



失敗という言葉に皐月は少し呆れ顔。



「フフッ、たかが人間の捕獲に失敗するなんて、あの人たち、実は思ったより大した事はないんじゃない」



男は皐月を諫める。



「皐月、奴らを甘く見ると痛い目を見る事になるぞ」


「ご、ごめんなさい…」



「奴らの力は実際に戦った俺が一番良く知っている」


そう言うと男は長い髪を手で搔きあげる。


すると、髪で隠れていた傷があらわれる。


男の顔には、右目から頬に向かって、剣かような、鋭利な刃物で、縦に斬られた傷があり、その傷が元で男は右目を失明していた。


「傷が痛むの?」



「フッ、奴らの事を思い出すとこの傷が疼くな」



過去を思い出す男の顔は不敵な笑み。
その笑みはどこか妖艶な雰囲気を漂わせていた。



「奴らとまさかまた、別の件で関わる事になるとは思わなかった」



「フフッ、私も貴方から話しを聞いていたから、“彼”が重要な役割を担っているて知った時は驚いたよ」



男は男性をゆっくりと地面に寝かすと立ち上がった。



そして皐月に。



「今度は俺たちが勝つ。誰も俺の計画の邪魔はさせない」


男の身体から、抑えていても抑えきれない
巨大な妖気が溢れでていた。


(面白くなりそうね)


無邪気に笑う皐月。


そして男の計画こそが、
後に全ての世界を巻き込む大きな戦いへと繋がっていく事になるのである。



そして亜空間の中で、横たわる一人の男性。


彼は静かに目覚めの時を待っていた。