自分の中でかなりスッキリしたことがあったので、メモ程度にここに残しておきたい。

11月末から地元の神学校でエレミヤ書の授業を担当しているのだが、先日31章の「新しい契約」を扱う中で、ロマ書7章と8章はまさに「古い契約」と「新しい契約」の枠組みで記されていることに気がついた。

これは決して新しい発見でも何でもなく、注解書を読めばすぐに書いてあることなのだが、やはり自分で「発見」した時の喜びは何にも代えがたい。

 

まず、7-8章で「新旧契約」の枠組みに直接言及しているのは7:6である。

しかし今は、私たちは自分を縛っていた律法に死んだので、律法から解かれました。その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。

ここでパウロが指しているのは間違いなくエレミヤ31章の「新しい契約」である。

そしてこの後の箇所から、7章では「古い契約」の限界を扱い、8章に入ってその限界を「新しい契約」がどのように突破したのかが記されている。

 

その「突破」が記されているのは8:1-4である。

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません(1)

なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法(2)が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。

肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを(3)、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。

それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるため(4)なのです。

いくつかコメントをしていきたい。

  1. 「新しい契約」の根底にあるのは「罪の赦し」である(エレ31:34)。
  2. エレ31章の「新しい契約」で重要なのは、「律法(トーラー)」は変わらず存在するということである。ここでいう「律法」とはシナイ契約のことではなく、広く「神のみおしえ」を意味している。
  3. 「古い契約」の限界に言及している。「古い契約」が意図していたのは、外的な力(書かれた律法を互いに教え合う)によって完全な従順に至るというプロセスであった。しかし罪の誘惑に抗うことができない弱い人(=古い人)は、どれだけ外的な力の働きかけがあっても、完全な従順に至ることはできなかった。
  4. しかし「新しい契約」によって心に律法が書き記された人(=新しい人)は、聖霊の内なる働きかけによって自発的に律法に従うことができるようになる。「神のみおしえ」に対する完全な従順が達成されるのである。
 
ただし、エレ31章で約束された「新しい契約」はまだ完全には成就していない。
事実、「彼らはもはや…『主を知れ』と言って教えることはない」(エレ31:34a)はいまだ実現していない。
私たちの内にはまだ「古い人」が残っているからである。
そこで、その「古い人」と戦い続けるよう読者を励ましているのが8:12以降である。
この「すでに」と「いまだ」の間に生きる者には多くの苦難がある。
しかし、この苦難が苦難で終わることは決してない。
三位一体の神の愛から私たちを引き離すものは何もないからである(ロマ8:31-39)。
 
以上のことを踏まえると、ロマ書7章と8章をセットで読むことがどれだけ大切かが分かってくる。
8章で語られている「新しい契約」の新しさは、7章で語られている「古い契約」の限界を踏まえないと理解できないからである。
7章単体についても、様々な解釈の歴史が存在しているが、「契約」の枠組みで読むことによって、解釈の方向性がかなり定まってくるのではないかと思う。
 
聖書研究の面白さを改めて認識した「発見」だった。
 
K.S.