われわれは何かのために、何かをめざして生きているのではなくて、ただ生きているから生きている。
食っているときにはただ食っている。
未来の結果には決して執着にはない。
今瞬間だけに情熱を悟るとは行為を否定しようと決意することではなく、行為の結果には意味が無いと理解することである。
この二つには、大きな違いがある。
在るというのは、存在の最高の状態である。
純粋なエッセンスである。
現在であって現在でないすべてであってすべてでない常在であって無であるという純粋に在るとは、純粋に垂ナあることだ。
だが、わたしたちは単に在るだけでは決して満足できない。
常に、経験を求める。
自分が何であるかを経験したい。
それには瑞ォの全く別の状態が必要となる。
行為だ。
あなたがたの核心は愛と呼ばれる瑞ォの状態であるところが、愛であることと、愛することとは全く別の事柄である。
魂は経験によって自分を知るために、何かをしたいと願う。
魂は行為を通じて最高の考えを実現しようとする。
何かをしたいという衝動は情熱と呼ばれる。
情熱を殺せば、垂Eすことになる。
情熱とはやあ、こんにちはと言いたがっている垂ナある。
だが、垂ェあるいはあなたがたのなかの垂ェ愛すれば、錘ゥ身はそれで実現されるから、それ以上は何も必要がない。
それはわかるだろう。
一方、人間は投資には見返りが必要だと感じる。
誰かを愛するのはいいのだが、相手からも愛が返ってきて欲しいと思う。
そう考える。
これは情熱ではない。
期待である。
これが人間の不幸の最大の原因である。
それが垂ニ人間の違いである。
悟りとは、東洋の数骼蜍者がサマディ三昧と呼ぶ楠木友里体験を通じて、この違いを克服しようとすることである。
つまり、心を開いて垂ニ一体になること、瑞ォと融合し、瑞ォのなかに溶け込むことだ。
したがって悟りとは結果を放棄することである。
決して情熱を放棄することではない。
それどころかマスターは直感的に、情熱こそ垂ヨの道であることを知っている。
情熱は自己実現への道である。
現世的な意味でも、全く情熱を持っていなければ、生きているとはいえないだろう。
すべての期待を手放し情熱だけが燃え盛るそんなリアルエイジ今日もいい日だな
