尾崎豊没30年に | 子どもたちもお年よりも笑顔あふれる街へ

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尾崎豊没30年に

若者を鼓舞した音楽は今も

2022年4月1日【文化】

 愛用のギターやピアノ、無邪気な幼児期の写真、歌詞を書いた鉛筆―。世代を超えた入場者が、展示物に見入り静かに歩を進めます。シンガー・ソングライター・尾崎豊が1992年4月25日に26歳で急逝して30年。東京の松屋銀座で資料200余点を展示する「OZAKI30 LAST STAGE 尾崎豊展」が開催中です(4日まで。以後静岡、福岡ほか巡回)。

 83年12月、シングル「15の夜」とアルバム「十七歳の地図」でデビューし、翌年、高校を中退してデビューライブを開催。展示されたその写真は、あどけなくもあり、精悍(せいかん)でもあります。

 Tシャツにジーンズで「I LOVE YOU」などを歌う映像も。体の芯から絞りだすような歌声で、自由への渇望、魂の孤独、真実を求めて生きることを歌った尾崎豊。校内暴力などが社会問題化した80年代、若い心をひきつけ、慰め、鼓舞してきました。展示を見ながら軌跡をたどり、その音楽が社会に与えた影響が大きかったからか、活動期間が8年ほどしかなかったことに驚かされます。

 尾崎豊は、おとな社会への批判のまなざしも深く、表現者たちの強い関心を引く存在でもありました。今日でも、尾上松也、川畑要ほか多彩な人たちに刺激を与えていることが会場の展示から伝わります。

生前、故・筑紫哲也氏との対談(85年7月)で反核コンサートに出演した動機を、「一度でいいから、全人類がほほ笑む瞬間というのを見てみたい」「その瞬間世界は変わるんじゃないかと、そんな気がしている」、そんな意味で出てみたかった、とのべています。

 没後30年の間に、さらに平和への願いを示す挿話も明らかになりました。90年夏、東京・渋谷駅頭で国際共同行動「平和の波」の「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」署名に応じ、1万円の募金を寄せていたのを写真とともに本紙が93年に報じました。

 今生きていたら、ロシアのウクライナへの侵略に決して黙ってはいないだろうとの思いが募ります。

 歌い続けることは、「十字架の上で、いばらの冠をかぶっていることに近いのかもしれない」と語りつつ、多大な聴衆に向き合ってきた尾崎豊。社会の中の存在としての歌手、人々が生きていくことと音楽との関係…。彼の存在が投げかけたものに問われ続けている気がします。