モードという現象を前にしたとき、ぼくはその軽やかさに惹かれているくせに、そのせつなさにばかり眼がいってしまう。
ごく端麗な容姿をしていて、まばゆいようなひとがたくさんいる。そんなひとに見つめられようものなら、すぐにでもその場から消え失せたくなる。そうした自分の気持ちはたしかにせつないものである。そして、ひとがぽくと同じような気持ちに囚われ、その困惑を隠しきれずに、表情に、あるいは身のこなしにそれをぎこちなく現わしているのを見るともっとせつなくなる。
そのとき、彼、あるいは彼女は自分の出自や境遇にも想いをはせているのだろうか、と想像するのはさらにせつないことである。けれども、さらにもっとせつないのは、そのまばゆいばかりのひとがこわばった顔つきで鏡に向かっているのを目撃したときである。
どうしてぼくたちは自分の可視性にそれほど自信がもてないのか?どうして自分の身体のまわりをいつもこのように不安げにうろつくことしかできないのか?モードというきらびやかな現象を前にしたとき、ぼくはきまってこうした間いに捕えられてしまう。