ここしばらく、書く行為に飽きと無駄を感じ離れていたが、軽い気持ちで過去文を修正したのがよろしくなったようである。ついつい悪い癖が出てきてしまった。誰が読んでいる読んでいないに関わらず、これは人間誰しもが持つ性(さが)のようなものなのかもしれない。
ここで少し昔話を死たい(死骸だけに)
昔、有人と食べ放題に行った帰り、腹休めのため駅前の広場で一服していた。その広場は鳩が群がる事で有名であり(現在は都市開発の為ビルが建ってしまっているが)、観光客や親子連れがよく餌を撒いていた。
近況とたわいもない話をしながら友人と時間を潰してると、小さな男の子が餌を撒いているのが見えた。だんだんと興奮してきたのだろう。奇声を発しながら鳩の集団に突っ込んでいったのである。
案の定、鳩は一斉に飛び立ったわけだが、逃げ遅れた鳩が数匹(数匹という次元ではなかったと思うが)、かなりの数の鳩が内臓を潰されて息絶え絶えになっていた。食後の腹休めのためだったはずがピクピクと動く鳩を見て、友人は気持ちが悪くなって吐きそうになっていた。
自分が咄嗟に思ったのが、苦しんでいるようだしトドメを刺してやった方がいいんじゃぁないのか?しかし、それが倫理上、法律上許されるかどうかは分からなかったし、自分には関係ない事なので事の成り行きを見守っていた。
すると母親が、まるで汚らしいものを見るかのように鳩に一瞥をくれると、子供の手をサッと引いて何処かに消えてしまった。残されたのは、息絶え絶えになった数匹の鳩たち。
この話の教訓(笑)は『鳩の群れに突っ込んでいったら何匹か死ぬ』といった至極簡単なものである。この事実は現場に居合わせなければ気が付かない部分であろう。
必ず全ての鳩が飛び立つわけではない。例えば、そのうちの一匹にターゲットを合わせようとしたとき、鳩の特徴を良く見極めなくてはならない。「それ」はノーリスクではなく、運悪く死んだ鳩をつかまされたり、死骸処理に時間を取られたり、悪い気分になる可能性もあるという事である。
こういう話を聞いたとき、キヅキとして知識にプラスされるかもしれない。しかし、そこには実際に体験したという生々しさが無い。知識だけが過剰に増えることで、その処理や適切な対応方法が追い付かなかったり、リアリティに欠ける机上の空論で終わってしまう場合がある。しかし、人間は想像力も豊かだし、そこは個人の資質や感性力に委ねられる部分が大きいと思うが、体験していないから悪いと言う話ではない事も付け加えておきたい。
まぁ、特にたわいもない話である。
※武田信玄で有名な「風林火山」、原典では「風林火陰山雷」とされ、陰と雷が抜けている。諸説あるが、語呂がいいから(笑)なんだろうな、と思う事にしているが。それに陰と雷の部分は意味的には相手に悟らせてはいけないので、むしろ書く方が不自然とも思うが考え過ぎだろうか。
つまりは、知(こちらの意図)を隠し、攻撃するときは瞬時に、である。
私は特にネット上の口当たりの良い話と言うのは、本当に有益な情報を隠すための「陰」であり、核の部分は自分で使うために秘匿しているのだろうな、と思っている。特に具体性の無い、抽象的な言葉とは「隠す」ためには有益である。ガンバレ、信じろ、勇気を出そう、等。良い印象の言葉には必ず裏がある。
例えば、勇気は安定を捨てることでもあり、信じるとは思考停止、依存の面がある。努力も方向を誤れば無駄な時間の浪費である。兵法においては、相手を利用したくば利を、屈伏させたければ害を説け、とはよく言われる。命のやり取りの極限の中、編み出されたものが兵法。故にビジネス、人生に通じるところも多いのだろう。
信憑性において、今の自分が証明です。それは確かに一理あるが、どの職業限らず、その過程においては努力のみならず、他者の協力や運もあったであろうし、それを根拠に言いたい放題、自分こそ正義では、ただの嫌味、無思慮、無配慮といった印象しか残らないように思える。むしろ「私が証明です」は巷にありふれ過ぎており、警戒心を抱かれる可能性もある。
安定を捨てるとはとても勇気のいる事である。個人的な話であるが、会社を辞める際、叔父に(最終的には「お前が決めた事だろ?」と厳しく言われはしたが)身内じゃなければこういう話はしない、養子にする、とまで言われ、むしろその心意気が信用となった。つまり、他者が人生を変えるような選択を迫る場合、自己責任だけで口当たりの良い事だけを言われても困るのである。メリットと等しくデメリットは生じる。例えば、赤の他人同士で、金銭の授受が発生しているような場合、言葉の責任はより重くなるだろう。
そもそも、サラリーマンが楽で安定(ある程度はしているが)しているとステロタイプに思ってるような輩は無知すぎる。そういう人というのは、いても数年だったのではないか。そんな人らがサラリーマンを楽だのどうこう言う資格はない。あるいは「つまらん」などは、大変失礼な話であり、口が裂けても言ってはいけない台詞であろう。逆に自分が言われたらどう思うのか?と想像するべき。そもそも、それを平然と言えてしまう人間が人間性を語る資格などない。ぶっちゃけ言い切ってしまうと消費者のほとんど、日本を動かしているのは電車に揺られているサラリーマンであり、クリエイターではない(そこあまり関係ないけどな(笑))
メンバーにも会社員がいるが、やはり一番大きいのは厚生年金だろう。非常にザックリとした計算でも支給額に年間100万以上の差が出てくる。それでも十分とは言えないだろう。更にそこから税金を引かれるわけである。フリーランスになると、どんなにつつましく生活しても老後、毎月10万以上(全く準備していなければ更に多いと思うが)の赤字を垂れ流しつつ、草を茹で、ザリガニを捕食しながら、貯蓄を切り崩さなくてはいけない。どうせ100歳まで生きない、と思っているような人ほど長生きしてしまうもので、一番怖いのは貯蓄が尽きたときだろうと思う。また、生涯年収は並のフリーランスを軽く超えるだろう。
祖父などを見て思うが、老齢化に伴い肉体も衰え、何をするにも億劫になり怒りっぽくなるのは仕方がないのかもしれない。当然ながら現役のようにはいかないはずである。老後は孫を見て呆けながら、ゆっくりチェアに揺られ、音楽を聴き、読書をしながら過ごしたいものであるが。
年を取るにつれて医療機関のお世話になる確率は高くなる。例えば、将来、死の間際、入院もできずに全身痛みにのたうち回って死ぬような事態は勘弁願いたいものである。やはり、痛みから救うのも金である。まだ先の事と思うかもしれないが、人間にとって大事なのは「今」であるが、最悪の事態を想定した「未来の今」を警戒するのも悪くはないだろう。冗談抜きに億ってはじめて安心という時代が来るかもしれない。私は独身であるが、メンバーのように扶養せねばならない家族がいる場合、選択も更に慎重になると思うのである。
とはいえ、選択は自由であるし「私はこう思う」程度の非常にどうでもよい話である。やはり、人生は一度きりであるし、悔いのない一生こそが至高と言えよう。しかし、「悔いのない一生を送ろう」的なこちら側の言葉とは他者にとっては無責任であり、場を選ぶように思える。また、強い言い方になるほどに現実から乖離し精神論化してゆくだろう、といった話でしかないので落ち着いて欲しい。具体的な将来設計に興味があれば、専門家の御意見を仰ぐのもよろしいかと思う。
まぁ、自分が思っている事は概ねの人間も思っているんだな、というのが最近の気付きであるので、こういう場で簡潔にまとめておきたい。
要は、真に価値ある情報など簡単に手に入るわけではない、という事である。
ちなみに、鳩の話はこれとは全く関係ない。一時期、余暇に行っていた「別の事象」に対する教訓である。一度痛い目にあっているので、運用は慎重に、といった「役にも立たないアドバイス」である。