地震の被害に遭われた方に

お見舞い申し上げます。

まだこれからが心配ですが

守られますように。



ぬいさんとごはん




家族がいない時は

ぬいさん を おともに。





毎日暑いですが

うっすら秋の気配も



さてと


私のいつまでも不案内の聖書の謎。

基本が、分かっていない 😭



聖書の言葉は神を写したものが文字となったものと理解していました。


(ヨハネの福音書1章1節の「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。)  


と書いてあるから。


ヨハネの福音書でも

「言葉(神が発した言葉)が神そのものであり、その言葉が人間として現れた(イエス・キリスト)と教えています。ここでも

神と「言葉」の同一性を最も明確に言及していると思います。



ここからが私の理解が及ばなくなってしまうのですが


神が言葉になるためには

神🟰言葉になりますよと

と同一性を保障するものがないと🟰には


ならないのでは?


言葉は一つの道具いう感覚があるので

常に言葉を発した瞬間から差異をはらむものだと思い、、となると聖書の言葉は神であるのはそうなのでしょうが


神以外がその言葉を受け止めようとした時点で無理があるのでは?と思ってしまいます。


言葉にそもそもそういう性質があるのだから。

頑固なユダヤ教者が律法にハマりすぎて却って 神の御心に背いてしまうのもわかる気がします。


読み手によって聖書解釈は

いくつも出てくるのはありえるから


出自は一緒でもいろいろな教派が存在するのでしょう。


口伝律法から遡って

聖書の言葉って何なんだろうと

またまた謎です。


無限の神を言葉というものに完璧に写せるものなんでしょうか?


それでもやはり神🟰言葉

と理解すべきでしょうか?


どう理解したら神🟰言葉と思えるのでしょうか。


神の現れの一部として言葉がありますよ 

なら

わかるんだけどなぁ。



無限の神を言葉で完全に捉えることは

難しいけど


言葉を通じて神の啓示や存在を感じ取ることは可能で際限がない。

そのような意味を内包しているという意味での

「神=言葉」 なのか⁇



言葉を実用性としてばかりしか捉えられないから

こんな疑問が出てしまうのか私。


どなたか教えてくださいませ。


脳内、、暑すぎてあやしくなってきましたので

この辺で。