ちょっと前に、相模原障害者施設殺傷事件を描く映画が公開された。
自分は観に行ってないが、友達が行って来たという。

 


なかなか深い内容だったらしい。
こういった映画は、ぜひ一度見るべきだと勧められた。

 


でも、自分は日々の暮らしの忙しさにかこつけて、結局いまだに観に行けていない。
 

 

小説を書く者として、

そういった深いテーマに触れることは大切だと思う。
そうは頭でわかっていても、どうしても踏み出せない。
 

 

何ていうか、触れることに難しさを感じてしまう。
 

 

この事件の半人は「国の負担を減らすため、意思疎通を取れない人間は安楽死させるべきだ」と言っていたそうだ。
 

 

意図せず、漢字変換が「犯人」ではなくて「半人」となって焦った。
 

 

「犯人」とは、罪を犯しているとはいえ100%人間だ。
でも、半人はたった50%しか人間でない。
では、残りの50%は何?

 


人でない何モノかに満たされた、

人の形をしたモノ。
そう考えると、

人間ってとても怖い生き物だ。
 

 

犬でも羊でも、

彼らは皆、100%犬や羊だ。
しかし人間は、

100%でない可能性もあるのだから。
 

 

話が逸れてしまった。
相模原障害者施設殺傷事件の犯人の説を頭から否定することは容易いし、

気持ちも楽だ。
 

 

でもどこかで、それで良いのかと自問する声が聞こえる。
楽で安全な回答に安寧して、

自分の頭で考えることを放棄してるんじゃないかと糾弾している。
 

 

果たして相模原障害者施設殺傷事件の犯人が言っていることは、

100%間違っているのだろうか。
そう、少しの迷いもなく言えるのだろうか。
 

 

これは文学的テーマにできそうな気がする。
ひどく重たいテーマだが、

取り組むことに文学的価値を感じる。