お盆も近くなり、故人に手を合わせる機会も大切になる。

御仏壇はなくても、故人の写真を飾ってお供えをしたり手を合わせる方も少なくない。

それは、いい事と思う。

 

昔居た事のある教団は、特有の「先祖供養」を勧めていたが、

基本的に仏壇に写真を飾ってはならないとされていた。

「写真があると、故人への執着になる」からと説いていたようだ。

今思うと、そういう考え方はちょっと寂しいですね。

 

元気だった頃の故人の写真に手を合わせ、感謝の気持ちと一生懸命生きようとする気持ちになるのは、良いことだと思うのだが。

位牌だけが故人との接点という考え方はどうだろう?

仮に立派に祀っているつもりでも、第三者から見ると、「殺風景な仏壇だな」と思われてしまう。

 

故人を思う浮かべて、感謝を新たにするには、写真をお飾りするのは良いことと考えている。

「執着」などと堅苦しい事はなしにして、各御家庭に合った形で心のこもった供養をするのが一番だ。

故人の魂は、仏様の浄土に導かれていると信じています。

静かに8月を迎えた。

祭壇、神棚、御仏壇には新しいお供物をお上げした。

明るさが増したような気がする。

 

暑さも厳しくなってきたが、梅雨明けも間近。

季節の移り変わりの時期。

当地は八月盆の風習がある土地なので、お盆と言う節目の日も間近。

改めて、命の尊さを考える時期にもなるだろう。

 

夕勤の際には、これからも精一杯生きたいと神様仏様に申し上げた。

七月も月末を迎える。

無事にひと月を乗り越えた。

ご加護に感謝です。

新しい月は、暑さも本番だと思うが、感謝忘れずに過ごしていきたい。

夕勤の際には、心からの感謝の言葉を述べたい。

在家として信仰生活を送れるようになったのも、神仏のお育てがあったからこそと思う。

お詣りも重ねて、地ならしをして頂けたと思う。

だからこそ、こうして一人で歩いていけるようになった。

 

教団に誘われた時代もあったが、人が作った組織は人に疲れるもの。

違和感を感じたのも、自分にはそぐわないものがあると感じ取ったからだろう。

信仰心を随分と傷つけられたりもした。

それも、気付く機会だったのだと思う。

あの世界は「信仰心」だけでは生き延びられない世界だという事も知った。

 

人生の大峠のような時期、お不動様に手を合わせた。

そして、心の故郷である三嶋大社に再び参拝した。

原点に立ち返る機会を与えて頂いた。

本来尊ぶべき神仏のもとに導かれた。

自室の祭壇は聖域なので、これからも清らかであるよう努めたい。

 

 

 

 

 

信仰に縛りはない。

神仏を尊ぶ心が何よりも大切。

 

私は檀家制度を全否定するものではない。

代々引き継がれていくのはまた大切だと思う。

でも、重荷に感じてまで継続するものではない。

なので、近年の「離檀」にも理解はできる。

この制度は合う家には合うし、合わない人には合わないだろう。

 

自身の信仰に合った形で信仰が出来るのが一番。

檀家にならずとも、信徒という形でのお寺とのお付き合いも可能。

自分に合った御寺院は必ず見つかる。

 

そういう意味では、今の自分は自身に合った形での信仰が成り立っているので幸せだと思う。

神様、仏様と向き合う時間を大切にしたい。