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小説『stray sheep』先頭へ

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「高槻くん、どうした？落合が手を挙げてるぞ」

「ああ、すみませんでした。では、落合さん、仰ってください」

「はい。あの、よくわからないんですけど、人を好きになるのが罪になるんですか？美禰子は三四郎が好きだった。だけど、いろんな理由で結婚はできなかった。それはわかるんです。後悔もしてるんだろうし、悪かったって思ってるんでしょう。でも、好きって気持ちが嘘じゃなかったらそれでいいじゃないですか。そんなの罪にならないし、わざわざ言う必要もないって思うんですけど。それに美禰子は『我が罪は常に我が前にあり』って言ってますよね。これはずっとその罪を感じつづけるってことじゃないんですか？だったらなんで三四郎以外の人と結婚したんです？そんなの酷いじゃないですか。美禰子も、その結婚した人も、三四郎も全員が不幸ですよね」

　教室は静かだった。風だけが音を立てている。深く息を吐き、高槻さんは一度目を閉じた。

「ああ、確かにその通りですね。『我が罪は常に我が前にあり』というのは罪を感じつづけるという告白です。これは元の意味とも合ってます。ダヴィデはウリヤを殺した罪を認め、その後悔と向き合いつづけることになるのですから。それに、人を好きになるのが罪になるのかについて僕はこう考えてます。中にはそうなる場合もあるけど基本的には罪にならないとです。その相手が誰であれ、どういう立場であれ、人を愛するのが罪になるとは思えません。ただし、それは場合によってです」

　頬は平坦になっていた。指は額にあてている。

「休憩前に『それから』の話が出ましたね。新井田さんの言った真顔になって互いを見ようとしなくなった三四郎と美禰子の話でもあると。もし美禰子が三四郎との恋を貫き通そうとしたら、それこそ二人は不幸になってたかもしれないんです。いえ、そうなるとは限らないけど漱石はそうなってもおかしくないように二人の関係を描いてます。立場や年齢なども含めてですよ。そのとき僕は『自然』という言葉を出しました。これは『それから』によく出てくるもので全体を覆うキーワードのようなものです。『それから』の主人公代助は学生時分に愛した女性を友人と結婚させるんです。二人のためになるだろうと思ってのことですが、それを漱石は自然に背いた行為というように書いてます。つまり、愛するというのは自然であり、それを社会的な要請であるとか、広田先生の言っていた偽善的行為によって曲げるのは自然に背くことだというんです」

　突然顔をしかめ、高槻さんは窓の方へ向かった。髪は風に乱れてる。

「ちょっと待ってください。どう話を繋げればいいかわからなくなってしまいました。――うん、そうか、広田先生は『それ自身が目的である行為ほど正直なものはなくって、正直ほど厭いや味みのないものはない』と言ってましたね。そこを読んだとき僕はこう言いました。この目的を愛に置き換えたら美禰子の言動はみなさんにどう映るでしょうと。どうでしたか？美禰子は正直だったでしょうか？僕にはそう思えません。ここでふたたび『それから』の話をします。自然に背いた代助はその自然に復讐を受けるんです。愛した人を失ったことに苦しみ、しまいには自然に従おうと、つまり、その女性を奪おうとします。それで彼は破綻するわけですが、僕には美禰子の言う『我が罪』も自然に逆らうことを示してるように思えるんです。美禰子は三四郎を愛してるんですよ。その感情こそが彼女にとっての自然なんです。しかし、それに背く選択をした。だから、その罪は常に彼女の前にありつづけるようになったんです。ということは、わかりますか？美禰子はどちらへ行っても不幸だったんです。自然に従ってもそうなる可能性はあったし、背けば不幸なんです。それで迷ったんですよ。三四郎は教会の前でそれに気づいたんでしょう。だから、絵となった美禰子を『迷羊ストレイシープ』と呼んだんです」

　風に散らされたのだろう、雲はなく、ただ青く透き通った空が見えるだけだった。高槻さんは一瞬だけ顔を向けてきた。

「僕は美禰子の言った『我が罪』をそのように捉えています。つまり、愛という自然な感情に逆らって社会的な要請に応えたことが彼女の罪であり、それはずっと目の前にありつづけるようになったとです。ただ、これはよくあることですよね。希望がすべて叶うなんてことはないのですから誰にだって起こり得ることです。僕たちは社会的な存在だし、人を愛するというのも社会的な行為に他なりません。ですから、状況によっては愛情をあらわせない場合もあるんです。自らの自然に従って社会的な要請に刃向かうと、その者には破滅が近づきます。だから美禰子はそれを選ばなかったんです。選ぶことは可能であったけど、敢えて選び取りはしなかったんですね。しかし、それによって彼女には苦しみがずっと残るようになったわけです」