↑
小説『stray sheep』先頭へ

　　　　　　← 前話へ　　　　　　　　　　　　　　　　　次話へ→　　　　　　

「いや、びっくりしました。もうこんな時間でしたか。こりゃ章の最後まで終わりそうもないですね。しかし、この部分は重要だからもう少しだけ話しあいましょう。他に質問はありませんか？」

　すっと手が挙がった。加藤さんは頬杖をつき、首を曲げている。横森さんは唇を歪めていた。

「はい、柳田くん。君がなにも言わないから不思議に思ってたところでした。なんでしょう？」

「あの、前に先生は『無意識の偽善』について意見があると言ってましたよね？それを聴かせてもらえませんか？」

「ああ、そんなこと言っちゃってましたね。では、ここでそれをご披露しときましょうか。ただ、これを聴くと今までの話がほとんど覆っちゃうかもしれませんよ」

　頬をゆるめると高槻さんは黒板に向かい、『偽善』の上に『hypocrisy』と書いた。それをしばらく見つめている。

「ほんというとこれは僕のあまり好まないやり方なんです。小説について語るときはそこに書かれてることのみで考えるべきと思ってるんですね。しかし、本文に出てこない『無意識の偽善』を持ち出したのも僕だから責任を取りましょう。いま書いたように『偽善』は英語では『hypocrisy』です。で、その英語はギリシャ語からきています。もともとの意味は、」

　ふたたび黒板に向かい、高槻さんは『hypocrisy』の脇に『役を演じること』と書き足した。

「そう、演じることなんですね。広田先生の謎解き、いや、ヒントでは『偽善』や『利他主義』が問題になってましたが、アンコンシャス・ヒポクリットにおける『偽善者』とは『演じる者』を語源としてるわけです。つまり美禰子は演じてるんですね。女性らしく演じることもあれば、すこし突っ慳貪な人物を演じることもあります。そういえばこういう部分がありました。――ええと、だいぶ遡りますが四十五ページです。三四郎が与次郎に連れまわされ、落語を聴いた後ですね。

『円えん遊ゆうの扮した太鼓持は、太鼓持になった円遊だから面白いので、小こさんの遣る太鼓持は、小さんを離れた太鼓持だから面白い。円遊の演ずる人物から円遊を隠せば、人物がまるで消滅してしまう。小さんの演ずる人物から、いくら小さんを隠したって、人物は活かっ潑ぱつ潑はっ地ちに躍動するばかりだ。そこがえらい』

　ここはただ落語家を論じてるだけなのかもしれません。しかし、漱石が無意識に演じる人として美禰子を捉えていたなら意味が違ってきます。三四郎は様々な演技をみせる美禰子の自然を、本当の姿を見たいのかもしれません。ただ、この時点ではそれをまだ見てないんですね。謎めいてると思うだけなんです。また、無意識に演じることに関してはこういうふうに見ることもできます。美禰子は自分でも気づかぬうちに媚態を振りまいていると。つまり男を虜とするような言動をしてるという考え方ですね。まあ、そうでもあるのでしょう。しかし、三四郎もある意味では美禰子に媚態をみせているんです。それで彼女は三四郎を気にしはじめるわけですからね。このことに関しても美禰子だけ特別ってわけじゃなく、登場人物すべてがそうなんです。彼らは気づかぬうちに演技をしています。もちろんそれを漱石は操ってますよ。書き手は限定された状況に登場人物を放ちます。そして、いろんな装置を用意しておくんですね。その上で演技をさせているんです。ブレてるように思えるのだって、計算してそうさせてるわけです。その計算がうまくできていないと物語は破綻します。まあ、ちょっと後に漱石はこういう感じのことを書いています。『ある状況の下もとに、ある人間が、どんな所作をしても自然だということになる』そして、それが自然にみえないなら、下手に書かれているからだと。そのように考えていた漱石のことだから破綻しない自信があったのかもしれませんがね」

　高槻さんは口を閉じた。ノートを持つ手は力なく下がってる。

「うーん、ここを一時間で話すのは無理がありましたね。今日は終えることにして次回に持ち越しましょう。ただ、最後にこれだけは話しておきます。また戻りますよ。百七十一ページにある広田先生の台詞です。『それ自身が目的である行為ほど正直なものはなくって、正直ほど厭味のないものはない』――この目的を愛に置き換えたとき、美禰子の言動はみなさんにどう映るでしょう？考えを一方的に押しつけるのはなんですが、僕はこう思うんです。美禰子は正直になれないんですね。それには様々な要因が絡んでます。だから、彼女は揺れ動くんです。その揺れ動く美禰子が三四郎には謎なんですね。そして、謎を断ち切ろうとしたときに二人の関係は動くんです。次回からはそれを漱石がどう書こうとしたかを中心に読んでいきましょう」