↑
小説『stray sheep』先頭へ

　　　　　　← 前話へ　　　　　　　　　　　　　　　　　次話へ→　　　　　　

◇

『正門を這入はいると、取とっ突つきの大通りの左右に植えてある銀杏の並木が眼に付いた。銀杏が向うの方で尽きるあたりから、だらだら坂に下がって、正門の際に立った三四郎から見ると、坂の向うにある理科大学は二階の一部しか出ていない。その屋根の後ろに朝日を受けた上野の森が遠く輝いている。日は正面にある。三四郎はこの奥行のある景色を愉快に感じた』

　土曜の午後になると私たちは三階の端にある教室で『三四郎』を読んだ。一時間半かけてじっくり読みつつ講義を聴くのだ。その前の三十分は書いたものについての寸評にあてられていた。高槻さんはだいたいにおいて「いいですね」と言い、その上で「この人物はなにを考えてこのような言動をしたのでしょう？それを深く掘り下げて書くとさらに良くなると思いますよ」などと言った。私は詩を幾つか読んでもらった。高槻さんは顎に手をあてながら低く唸っていた。

「うん、非常にいい。言葉の使い方がいいですね。これは連作詩にしてもいいんじゃないですか？詩を連ねて物語のようにするんです。ま、そうしてもらった方が判断しやすいって部分もありますがね。ほら、あの『グリーン』って詩、僕はあれが好きでしたね。あれにはまだ先があるように思えました。あるいは、あれ以前の物語がね」

「はあ」とだけ私はこたえた。高槻さんは真顔のまま見つめてきて、頬をすこしゆるめた。

「『けれども教室へ這入って見たら、鐘は鳴っても先生は来なかった。その代わり学生も出て来ない。次の時間もその通りであった。三四郎は癇癪を起こして教場を出た。そうして念のために池の周囲まわりを二遍ばかり廻って下宿へ帰った』

　では、このまま六十一ページまで読んでしまいましょう」

　蝉の声は遠く聞こえた。雲はゆったりと流れてる。私は文庫本の先へ目を向けた。ノートに隠れて顔は見えず、もじゃもじゃの髪がわかるだけだった。

「そろそろ読めましたか？ちょっと長かったでしょう。それに冗長に思えたかもしれませんね。ただ、しつこいようですが優れた小説に無駄な部分などありません。三章の頭からここまでのすべてにきちんとした意味がそなわってるんです。とくにアフラ・ベーンという作家の件は面白い部分に繋がってますよ」

　スニーカーが床を踏み鳴らしている。私たちは動く姿を目で追っていた。

「さて、三章にも重要な人物が出てきました。佐々木与次郎という人物です。この人物は狂言回し的に物語に関わってくるんですね。東京の風俗にも通じてるし、ほぼすべての登場人物と知り合いなんです。彼と友人になることで三四郎の世界は一気に広がります。それと同時に読者が見る世界も広がるんですね。まったく便利な人物を漱石はつくりあげたものです。ただ、こういった人物は書き手にとって諸刃の存在でもあるんです。ストーリーの進行には役立つのですが、その後の扱いに困るということも起こりえます」

　そこで歩くのをやめ、高槻さんは教室全体を見まわした。

「この与次郎はだいぶん後に『悪戯をしに世の中へ生れて来た男』と評されてますが、まさにその通りなんですね。ただ、書き手である僕たちが忘れてならないのは彼がそのような役割をあたえられてるということです。物語を掻き回しつつ、書き手の意図する方へ引っ張っていく役割です。僕がその後の扱いに困る場合もあると言ったのは、こういう存在は浮き上がりがちになるってことなんです。読む者からすると一貫性が無いように思えることもあります。あるいは性格破綻者のように思えたりですね。そうなっていないのはひとえに漱石の腕ということでしょう。――で、彼はさっそくこの章で人と人を繋ぐ役割をしています。野々宮くんとも知りあいである彼は三四郎をその妹へと近づけるんですね。まあ、三四郎は池の端で会った女性と混同してしまうんですが、それも彼が池の女を気にしてることを伝えるのに格好の場面となるのです。では、つづきを読みましょう。ええと、『三四郎はこう思って立っていた』からですね。ああ、この後に出てくる部分はいいですよ。ここです。

『眼の大きな、鼻の細い、唇の薄い、鉢が開いたと思う位に、額が広くって顎が削こけた女であった。造作はそれだけである。けれども三四郎は、こういう顔だちから出る、この時にひらめいた咄嗟の表情を生れて始めて見た。蒼白い額の後に、自然のままに垂れた濃い髪が、肩まで見える。それへ東窓ひがしまどを洩れる朝日の光が、後から射すので、髪と日光ひの触れ合う境さかいの所が菫色すみれいろに燃えて、活きた暈つきかさを脊負ってる。それでいて、顔も額も甚だ暗い。暗くて蒼白い。その中に遠い心持のする眼がある。高い雲が空の奥にいて容易に動かない。けれども動かずにもいられない。ただ崩なだれるように動く。女が三四郎を見た時は、こういう眼付であった』