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小説『stray sheep』先頭へ

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「で、もうひとりの重要人物ですが、漱石は野々宮くんと違ってストレートな紹介をしません。まるで穴倉の実験室や大学周辺の延長線上のような描写の中にぽつんと出してきます。ただ、それでも印象に残るんですよね。これはここに至るまでに何箇所かで色彩について述べてることにも因ると思います。汽車の女についても帯の色という言葉が出てくるし、肌の色にも触れています。停車した駅で見かけた西洋人も女性の服だけは上下ともに真っ白だと書いています。漱石は女性描写で色味というのを意識してるんですね。それはこの部分をさらっと書きつつも印象を残すために思えます。では、読みますね。三十ページです。

『ふと眼を上げると、左手の岡の上に女が二人立っている。女のすぐ下が池で、池の向う側が高い崖の木立で、その後が派手な赤煉瓦のゴシック風の建築である。そうして落ちかかった日が、凡すべての向うから横に光を透してくる。女はこの夕日に向いて立っていた。三四郎のしゃがんでいる低い陰から見ると岡の上は大変明るい。女の一人はまぼしいと見えて、団扇うちわを額の所に翳している。顔はよく分らない。けれども着物の色、帯の色は鮮かに分った。白い足袋の色も眼についた。鼻緒の色はとにかく草履を穿いている事も分った。もう一人は真白である。これは団扇も何も持っていない。ただ額に少し皺を寄せて、対岸むこうぎしから生おい被かぶさりそうに、高く池の面に枝を伸した古木の奥を眺めていた。団扇を持った女は少し前へ出ている。白い方は一ひと歩あし土堤どての縁ふちから退がっている。三四郎が見ると、二人の姿が筋すじ違かいに見える。

　この時三四郎の受けた感じはただ奇麗な色彩だという事であった。けれども田舎者だから、この色彩がどういう風に奇麗なのだか、口にもいえず、筆にも書けない。ただ白い方が看護婦だと思ったばかりである』

　どうでしょうか？色に関する描写が散りばめられていて、映像が浮かぶような文章ですよね。絵画的といってもいいでしょう」

　柳田さんは大きく首を反らしてる。それを見て、高槻さんは薄くだけ微笑んだ。

「まだあります。三十二ページですね。

『二人の女は三四郎の前を通り過る。若い方が今まで嗅いでいた白い花を三四郎の前へ落して行った。三四郎は二人の後姿を凝じっと見詰ていた。看護婦は先へ行く。若い方が後から行く。華やかな色の中に、白い薄を染抜いた帯が見える。頭にも真白な薔薇を一つ挿している。その薔薇が椎の木陰の下の、黒い髪の中で際きわ立だって光っていた』

　ここで漱石が強調したかったのは真っ白な薔薇を挿してる女性です。そういう意図もあって片割れを看護婦にしたのでしょう。白衣の女性と対比させることで鮮やかに浮き上がるようにしてますね。で、この後はこうつづきます。

『三四郎は茫然ぼんやりしていた。やがて、小さな声で「矛盾だ」といった。大学の空気とあの女が矛盾なのだか、あの色彩とあの眼付が矛盾なのだか、あの女を見て、汽車の女を思い出したのが矛盾なのだか、それとも未来に対する自分の方針が二ふた途みちに矛盾しているのか、または非常に嬉しいものに対して恐おそれを抱く所が矛盾してるのか、――この田舎出の青年には、凡すべて解らなかった。ただ何だか矛盾であった』

　漱石はことさらに『田舎者』と強調することで三四郎の限界を示してますね。つまり、主人公が感じることに限界を設け、周囲にあらわれる人物や起こる出来事を読者にはっきり判断できないようにしているんです。このことは彼の性格や生い立ちを強調するとともに作品全体を覆うぼんやりした雰囲気をかたちづくっています。――いや、ちょっと一気に言い過ぎましたかね。ここまでのところで質問はありますか？」

　柳田さんが手を挙げた。耳に腕があたるような模範的挙手だ。

「ああ、柳田くんでしたね。どうぞ」

「はい。あの、先生が言ってたのは三四郎と美禰子が会うシーンのために色彩に関する文章をところどころ埋め込んでおいたってことですか？」

「いやぁ、先生って呼ばれると照れちゃうなぁ。――でも、今のこたえとしては、僕にはそう思えるって感じですかね」

「あともうひとつ。看護婦と美禰子が一緒にいるのには理由があったはずですけど、先生は美禰子の色彩を強調するために看護婦を登場させたと考えているんですか？」

　高槻さんはうなずきながら聴いている。それから、肩の力を抜くように腕をぶら下げた。

「君は『三四郎』をきちんと読んでるみたいですね。その通り、美禰子――この池の端で会う女性と看護婦には関係がある。後にそういう記述がありますものね。ただ、僕はそのように考えています。最も重要な人物を登場させるにあたって漱石は格段の準備をしていたはずです。そのためにそれまでの部分に色彩を感じさせる描写を置き、このシーンでの連れも白い服をまとった人物にしたんじゃないかってね。それに、この女性と初めて会うシーンは運命的なものすら感じさせるように書いてあるんです。だから漱石は絵画的な表現をしてるんですね。既に絵となったものを鑑賞してるような書き方にも意図があるってことですよ。しかも、さらにいうとこのシーンでの色彩描写には不思議なところがあります。気づいた方はいますか？」

　その部分を読み、私は顔をあげた。高槻さんは目を細めてる。

「落合さん、なにか気づいたんじゃないですか？」

「え？いえ、」

「こういうことに間違いはないんですよ。さっきも言いましたが感じることが重要なんです。きっとあなたには感じたことがあったはずです。それを教えてくれませんか？」

「あ、あの、」

　そう言って私は立ちあがった。椅子はガタッと音をたてている。

「この女の人については色の記述がないです。夕日と赤煉瓦と書いてあるので全体的に赤いのはわかるけど、女の人については足袋が白いとか真っ白な薔薇を髪に挿してると書いてあるだけです」

「いいですね。僕の感じたことと一緒です。そう、この女性に関しては直接的に色彩を書いていないんですね。しかし、夕日や赤煉瓦と書くことで全体の色調はわかる。その中に何色ともわからないが『奇麗な色彩』をまとった女性がいるのがわかるだけです。これはたぶんですけどわざとそうしたのでしょうね。読者の想像を喚起しつつ、わかりやすい表記をしないことで美しさを際立てさせてるともいえるでしょう」