父さんがそうノートに記してるあいだ、僕にはもうひとつの事件がもたらされた。

 

 ドアを叩く音が弱々しく聞こえてきたのだ。僕はまだ考えごとをしていた。まとまることのない考え――様々な言葉があらわれ、つかむ前に違う言葉があらわれるという感じだった。そんなときにノックは現実の経過していく時間へ引き戻した。

 

 僕はそれを父さんだと思った。真昼ちゃんはまだ戻ってなかったし、部屋に来るなんて父さんか真昼ちゃんしかいなかったからだ。僕は無造作にドアを押し開けた。しかし、そこに立っていたのは温佳だった。

 

「起きてた?」と温佳は言った。それから、部屋の中をそっとのぞいた。

 

 僕は上下ともスウェットを着ていた。せんだん学園陸上部のスウェットだ。温佳は青い細かな花が散らされたように描かれてるブラウスに黒いすその広がったスカートをはき、ダウンジャケットを羽織っていた。

 

 ここに来るには外廊下を通らなければならない。真冬の深夜だから当然に寒かったし、風もまだ強かった。温佳はダウンジャケットの中で腕を組んでいた。ただ、素足だった。その足を擦りあわせながら、「入ってもいい?」と言った。

 

「散らかってるけど」

 

 僕は温佳を見おろしていた。温佳は目だけ上げてじっと見つめてきた。大きな瞳は硬く尖ってる印象をあたえた。黒眼はあくまで黒く、その底は見果てぬくらい遠い感じがした。僕たちはそれくらい近くにいた。シャンプーの匂いがした。

 

「そんなの、」と言って、温佳は目をそらした。

 

「気にしないわ」

 

 僕は椅子に座った。温佳は部屋のほぼ中央に立ち、しばらくベッドや机や本棚なんかを眺めていた。それは突然見馴れぬ町に立たされた人間が目に入るひとつひとつをきちんと理解しようとしてるようにみえた。

 

「散らかってなんかないじゃない」


「そうか?」

 

「そうよ。あたしの部屋の方が散らかってるわ」

 

 ダウンジャケットをベッドに放ると、温佳はその端に腰をおろした。石油ヒーターの暖気を送る音がいやに耳についた。温佳はスカートを何度か撫でた。僕を見ることはなかった。居心地の悪さを感じてるようだった。

 

 でも、それは僕も同じだった。自分の部屋にいるというのに落ち着かなかった。なんでもいいからレコードをかけるか、テレビをつけるかしたかった。誰かの声が聞こえていればすこしは落ち着くんじゃないかと考えたのだ。だけど、そうしなかった。なんとなくそうすべきでないように思えたのだ。

 

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《詩のようなものと幾つかの短文集です。

 画像があるので重たいとは思いますが、

 どうぞ(いえ、どうか)お読みください》