「な?」
 小林がジャケットの裾を引っ張った。最大限にひそめた声で耳打ちをしてもきた。
「あの子だってお前を見つめてるぜ。モテる男のつらいとこだな。熱い視線ってヤツだ」

 僕は睨みつけることで小林を黙らせた。それからもう一度不自然にならないよう気をつけながら隅にいる子を見た。黒くて長めのスカートに白いブラウス、これまた黒いカーディガン、靴も踵のない黒いもの。銀縁の眼鏡をかけていて、その奥にある瞳は僕の方へブレることなく向けられていた。うつむき加減になっているから、顔まではよくわからない。あらゆる特徴を消しこもうとしているような印象というのがわかるだけだ。しかし、その子がどういうつもりでそんなふうにしてるかは別にして、消すことのできない特徴を持っているのは確かだった。背がえらく高いのだ。僕は一八三センチある。それでも彼女の視線は仰角になっていなかった。僕はまた「ん?」と思った。彼女の視線が向かう先は顔じゃないようだった。左肩辺りを見ているのだ。もしくは、そのすこし上に視線は向けられていた。

 エレベーターがとまった。十二階だ。僕と小林はそこで降りた。ドアが閉まる間際に僕は振り向いた。そのとき彼女は首をすこしだけ上げた。頬にかかっていた髪は払われ、すこしだけ顔が見えた。それでも視線は僕の左肩へと向けられていた。ドアは完全に閉じられた。
「な、あんな子いたか?」
 僕はドアを見つめたまま言った。
「ん? ああ、さっきお前に熱い視線を送ってたのか? 確かに見かけない子だったな。でも、むちゃくちゃ地味だったし、気づかなかっただけかもしれないぜ」
「あんなに背が高いのに?」

 小林は目を上へ向けた。きっと思い出そうと試みたのだろう(彼の頭の中には女子社員のリストが埋めこまれているのだ)。しかし、諦めたように首を振った。
「いや、やっぱりわからないな。思い出せない。もしかしたら新しく入った派遣かもしれねえしな。――だけど、いまので自信がついたろ? お前はモテるんだよ。その要素は持ってる。だから、次の合コンにも出た方がいい。うん、こりゃ決まりだな。そうだろ?」
 大声でそう言いながら小林はトイレへ入っていった。


 ところで、僕には気になることがもうひとつあった。それは、犬についてだ。
 まあ、とりたててどうという話でもないのだけど、なんとなく犬に見つめられることが多いように思えるのだ。街中を二人連れだって歩いていても、散歩中の犬に出会すと僕だけを見ていたりする。三人で歩いているときも、もっと大勢であっても同じだった。犬は首をあげて僕を見る。吠えたりはしない。ただ、なにか言いたそうな顔をして見つめるだけだ。

 そのことが気になりはじめたのは人に指摘されたからだった。それもひとりふたりからではない。それだって記録をとってないから正確ではないけど、おおよそ五、六人から言われたことがある。はじめに言ってきたのは五年前に別れた彼女だった。念のため書いておくと、彼女は現実離れした物の見方をするようなタイプじゃなかった。どちらかというと僕よりシビアに現実を見ていたのだと思う。だから、僕たちは別れることになったのだ。

「ほら、また犬が見てるわよ」
 公園を歩いているときに彼女はそう言ってきた。
「私のことなんか見向きもしないのに、じっとあなたを見てるわ」
「は?」と僕は言った。「犬が見てる? なんのことだ?」
「気づいてなかったの? あなた、よく犬に見つめられてるのよ。さっきだって通り過ぎた犬がずっと見てたわ。その前にもあった。今日だけで何匹の犬が見つめてたかわからないくらいよ」
「そうなのか?」

 僕は彼女が示した方を見た。確かに柴犬が首を傾げながら僕を見つめていた。飼い主が引き綱をぴんと張って連れていこうとしてるのに足を踏んばって動こうとしなかった。
「美早紀のことを見てるのかもしれないだろ? こっちは見てるけど俺を見てるとは限らないじゃないか」
「ううん、違う。あれはあなたを見てるのよ」
 まあ、それでも別にかまわないけど――とそのときの僕は思った。犬に見られたからといってとくに困ることはないのだ。ただ、それ以降よくそういう指摘を受けることになった。鷺沢萌子だって同じように言ってきたことがある。


 

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