【二人の天才】藤井聡太四段(前人未到の29連勝)と加藤一二三九段(現役最高齢棋士として引退)

 

平成29(2017)年6月を、多くの将棋ファンが胸に刻むだろう。14歳の天才中学生棋士・藤井聡太四段が勝利を重ねて大記録をつくり、「神武以来の天才」と呼ばれ77歳まで現役最高齢棋士として活躍した加藤一二三(ひふみ)九段が引退した。2人を知る作家の大崎善生さんに原稿を寄せてもらった。

 

26日、東京・千駄ケ谷の日本将棋会館には40社100人を超える報道陣が集まった。藤井聡太四段の連勝日本新記録が懸かった一局。29連勝を達成し、神谷広志八段が作った28連勝の大記録を30年ぶりに更新したのだ。

 神谷の28連勝。

 どんなことがあってもこれだけは絶対に破られないだろうと、長年いわれた記録だ。羽生善治三冠ですら22連勝で、あと6勝を残し敗れ去っている。しかし羽生はそれ以外にも18連勝を2度記録しているのだからすごい。そんな羽生をしても破ることができなかった、もしかしたらただ一つの、あるいはそれに近い記録なのである。

 対局は特別対局室が使われた。四段格が普通使う大広間では、殺到する取材陣により、ほかの対局者に迷惑が掛かるという判断。対局者をぐるっとカメラが取り囲み、記録係は困り果てた。振り駒をするスペースがない。咄嗟(とっさ)の判断で対局者の背後に空間が作られ、そこで行われる。結果は藤井の先手。

 藤井は落ち着いて2六歩と突いた。対する増田康宏四段は8四歩。そう指す増田の指先は緊張に震えていた。

 白星という雪だるまが転がっているような日々である。坂の上から転がされた雪玉は10連勝、20連勝と勝ちを重ねるたびに、その姿を巨大化させ、25連勝を超えたあたりからもう誰も止めることができない勢いになってしまった。

 大阪・福島の関西将棋会館では藤井の対局日には報道陣であふれ、ついに警察が警戒にあたり始めた。揮毫入りの扇子はすぐに売り切れ、藤井が幼少時に遊んだというゲームはほとんどが売り切れてしまった。そんな藤井ブームにより次々に起こる異常事態が、日々報告されている。朝のテレビでは藤井の顔を見る方がむしろ普通のことになっている。

 羽生七冠誕生のときも社会現象化するようなすさまじいフィーバーとなったが、今回はそれを超えているのではないだろうか。デビューしたばかりの新四段が、そんなブームを巻き起こしたことには驚くしかない。

 加藤一二三九段の14歳7カ月の記録を破り中学生棋士になったこと。そしてそれから勝ち続けたこと。もちろんそれがブームの要因なのだろうが、しかしどうしてもそれだけでは説明がつかない。

 ブームの最大の要因。それは藤井聡太のかわいらしさにあるのではないだろうか。藤井はいつ見ても飾らず、ごく自然体でニコニコしている。羽生とか谷川浩司九段とか天才と名高い棋士も多くいたが、彼らは一様に研ぎ澄まされた刃(やいば)のような雰囲気をまとっていた。近寄りがたいといえば近寄りがたい。しかし藤井はごく普通なのだ。どこにでもいる頭のいい中学生と見た目は何も変わらない。いつもただニコニコしていて、そんな親しみやすさが放っておけない存在として注目されだしたのかもしれない。

 神の子。あるいは大天才。

 それが電車に乗れば隣に座って地図を眺めているような、こんな普通の中学生なんだ。

 藤井は1年半前に先輩棋士から研究用にコンピューターソフトの導入を薦められた。その言葉に何の抵抗もなく素直に従った。それから藤井の将棋は加速度的に力を増していったという。ソフトでの研究は、経験が必要なため比較的苦手としていた序盤での差し回しを補ってくれた。序中盤での弱点を補えば、あとはプロのトップ棋士すら認める桁違いの終盤力が武器になる。

 考えてみれば藤井ブームが起こる前、将棋界はソフト不正使用が指摘された問題に揺れていた。しかし、たった一人の14歳のつくり上げた白星の数々が、立ちこめた暗雲を吹き飛ばそうとしている。

 

藤井聡太四段

 

平成29(2017)年6月26日、14歳の史上最年少棋士・藤井聡太四段が連勝記録単独トップに立つ29連勝を成し遂げた。歴代最多タイの28連勝を記録したのは5日前の21日だったが、その前日、77歳の現役最高齢棋士が将棋界を去った。加藤一二三(ひふみ)九段。「神武以来の天才」と呼ばれ、藤井四段に抜かれるまでの最年少記録保持者だ。振り返れば、藤井四段の連勝街道のスタート地点は昨年12月の加藤九段戦だった。二人の天才、その将棋人生の始まりと終わりがクロスした6月。

 

「ヒョーッ!」

 秒読みに追われていた加藤一二三九段がいきなり鳥のような奇声を上げた。

 座布団の上に膝立ちになり、ぐいぐいとズボンをたくし上げる。目はまん丸に見開き、相手玉を見据え爛々(らんらん)と光り輝いている。

 加藤が中原誠名人に挑んだ第40期名人戦はもつれにもつれ、ついに第十局へとなだれこんでいた。3勝3敗1持将棋2千日手、いつもなら6月の末に終わるはずの名人戦が7月の末になっている。それも第十局となれば、対局場を手配する新聞社もさすがに手が回らず、日本将棋連盟の特別対局室をその舞台とせざるを得なかった。

 その日、加藤は42歳。14歳でプロ棋士となり、18歳で名人挑戦権を得て、神童の名をほしいままにしてすでに24年が過ぎようとしていた。若さ、読みの精度、活力、おそらくデビューした当時の加藤には何一つ欠けているものも、また劣っているものもなかったと思う。

しかし加藤には信じられない悪癖があった。序盤の大長考である。誰が指してもこう進むしかないような局面で、しばし加藤の手は止まる。考える材料も乏しく考えること自体が意味不明と思われる序盤戦、ときには120分を超える大長考に沈むのである。現代の若手たちでは考えられないことだ。羽生善治以降の洗練された棋士たちは少しでも終盤に時間を残そうと考えるからだ。間違いは終盤に起こる。それに備え、潤沢な時間を残しておきたい。

 しかし加藤は考えても意味があるのかどうかさえあやふやな局面で突如考え始める。そして2時間考えた末に、誰でも指す当たり前の一手を指すのだ。

 その姿を求道的といわれることもあった。確かに答えがあるとは思えない局面で、時間を惜しまず懇々と考え続ける姿は見ている者の胸を打つものがあった。

 何を考えているのだろう。

 そもそも将棋に何を求めているのだろう。

 何手も続く秒読みに追われ加藤が何を思っていたのか。名人戦を10局も戦った末でも、自分は何も進化することもなく序盤にふんだんに時間を費やし、秒読みに追われている。

 もう負けか、またこうして自分は敗れるのか。そう思った瞬間に、盤面が光り輝く。不利と思っていた局面のはずだったが、中原玉に奇跡のような詰みが見えたのだ。

 「ヒョーッ!」

 その瞬間、加藤は魂の叫び声を上げる。

 ズボンをたくし上げ、目をひん剥き盤面を確認する。詰んでいる。これは自分の勝ちだ。

 それは求道とは程遠い話であった。

 あれほど望み続け、追い続けた名人位。

 それは皮肉なことに序盤の大長考や求道とは程遠い、秒読みに追われた終盤の一瞬の閃(ひらめ)きのなかにあったのである。

昭和57(1982)年。加藤は将棋史上に残る十番勝負を勝ち抜き、初めての名人位を手に入れた。

 これはあまり知られていないことだが、名人奪取後、加藤は感想戦を抜け出し取材陣をかき分けるように、階段を駆け下りて3階の「将棋世界」編集部の直通電話を手に取った。受話器を手に加藤は優しい声でこう言った。

 「お父さん、勝ったよ」

 家族にそれだけ告げると、再び階段を駆け上がっていった。

 

             (産経新聞より抜粋)

 

加藤一二三九段

 

将棋の藤井聡太四段、29連勝の新記録達成 30年ぶりに塗り替え

 

 

藤井聡太四段 連勝記録更新29連勝 対局後記者会見  

 

 

【将棋】藤井聡太四段 29連勝達成の瞬間【貴重映像】  

 

 

★藤井聡太 新記録デビュー29連勝!?★将棋 棋譜並べ ▲藤井聡太四段vs △増田康宏四段 第30期竜王戦決勝トーナメント

 

 

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