今年も残りわずかになり、来年度の新年の抱負を考える時期になってきました。

私ももうすぐ36歳になりますが、ここまで生きてきて最近「よく生きて、よく死ぬ」という言葉をよく考えるようになりました(笑)。


「よく生きる」ってどういうことなのでしょう?


最近同じ幼児施設に子供を連れて来ていた女性で30代前半で3人の幼い子供を残して病気で亡くなった方がいましたが、同じ母親としてその方の悲しみを想像すると胸が痛みました。世の中には信じられない不幸が良い人達に突然ふりかかるものだと思います。幼い子供達が癌、脳腫瘍や白血病で凄まじい闘病生活を送るとか、20代30代で重い病気にかかり亡くなるとか、健康に注意を払って真面目に一生懸命暮らしてきた人達が若くして突然発病してしまう、愛しい子供や家族を突然事故にあう病気になる、亡くなってしまう、私の周りで知っているだけでもそのような悲しい話が沢山あります。私も25歳の時に突然予期せぬ病に倒れ、死にかける経験をしました。その時に初めて「死ぬ」ことについて真剣に考えるチャンスを与えられました。それ以来「死」は「生」と常に共にあるという事を考えながら生きるようになりました。「明日もしも死を宣告されたらどうするか」と頻繁に自分に問いかけるようになりました。


もちろん、私は気が弱いので本当に今死を言い渡されたらまずパニックでアタフタすると思います(笑)。そして今だったら、幼い子供を残していくことに激しく悲しみ、運命を恨んで泣くことでしょう。でも、いくら泣いても、恨んでも、人は自分の「運命」を最終的にコントロールすることはできないのだと思います。


だからこそ、与えられた時間の中で、与えられた運命の中で「よく生きる」ということは全ての人にとっての課題なのではないでしょうか?


人が自分にしたことをずっと覚えていて恨んで生きるのか、その人を許し受け入れるという選択をするのか。

人の非を責め、人を批判して生きるのか、許し受け入れ愛すという選択をするのか。

人や状況に不満を言う/文句を言って生きるのか、全てに感謝をして生きるのか。

自分の境遇や自分に起きたことに怒り恨んで生きるか、そこに学びとチャンス(恵み)を見出し感謝して生きるのか。

自分は正しいと主張し続けるのか、それとも自分のプライドや傲慢さに目をむけるのか。


これは私自身が自分に問いかけていることです(笑)。


私の大好きな有名な詩「病者の祈り」という詩があります。知っている方も多いかもしれません。


「病者の祈り」


大事を成そうとして

力を与えて欲しいと神に求めたのに

慎み深く従順であるようにと

弱さを授かった


より偉大なことができるように

健康を求めたのに

よりよきことができるようにと

病弱を与えられた


幸せになろうとして

富を求めたのに

懸命であるようにと

貧困を授かった


世の人々の賞賛を得ようとして

権力を求めたのに

神の前にひざまずくようにと

弱さを授かった


人生を享楽しようと

あらゆるものを求めたのに

あらゆるものを喜べるようにと

生命を授かった


求めたものは一つとして与えられなかったが

願いはすべて聞き届けられた

神の意にそわぬ者であるにもかかわらず

心の中で言い表せない祈りは

すべてかなえられた



この詩の作者は不明なのだそうですが、きっと沢山の苦しみと悲しみを経験しそこから沢山を学び多くを得た人なのではないでしょうか。

「苦しみ」には実は深い「恵み」があるのだと思うようになりました。

いくつもの山と険しい谷を乗り越えてきた人に見えてくる素晴らしい景色とまばゆい光があると思います。

「よく死ぬ」ためにも「よく生きたい」と願うまだまだ未熟な私です(笑)。

何でも3日坊主で続かない私なのですが・・・ブログもはじめておいて、最後の投稿がもう2年前でした・・・

さて、私は映画を見るのが大好きなのですが・・・先日2つ印象深い映画を見てそれについて書きたくなりました。


一つはオーストラリア映画の「Van Diemen's Land」という映画で、1800年代初期のオーストラリアのタズマニアにいた8人の囚人の話で実話だそうです。8人は脱走するのですが、脱走した後、食べ物の少ない厳しい自然の中で、ほんのわずかな食べ物も無くなり究極の選択を迫られます。何とお互いを殺し合い、人肉を食べて生き延びるという凄まじい選択をしてしまうのですが・・・このような究極の選択にまで追い込まれていく人間達の葛藤と苦しみをピュアな美しい自然とのコントラストで描いていて何とも印象深い映画でした。ホラー映画並みの恐ろしいシーンも結構ありましたが、映画を作製した監督や俳優達の情熱が伝わってくる大変リアルで素晴らしい演技だと思いました。


もう一つは多くの方が知っているかもしれませんが、「The Reader」という映画です。第二次世界大戦後のドイツで16歳の少年マイケルと30代の女性ハナが出会い一時の恋愛をするのですが、ハナはある日突然いなくなってしまいます。8年後に大学で法律を勉強していたマイケルがはハナがナチスの戦争犯罪者として裁判にかけられているところを見つけます。ナチスに属し残虐な犯罪を行ったとして裁判にかけられるハナとそれを見守るマイケル。彼女を一人の人間として理解し、彼女の弱さ、繊細さ、美しさ、悲しみ等を知るマイケルは彼女に科せられる「罪」のレッテルの大きさに葛藤し苦しみます。


この2つの映画を見た後、改めて人間の「罪」というものについて考えさせられました。「私はそんなことは絶対にしない」と言うのは簡単ですが、人間は究極の選択を迫られた時に実際どのような選択をするのかということは本当はその時になるまで分からない気がします。私達は常にお互いを「裁いて」、あの人は「正しい」あの人は「間違っている」というような判断を日々してしまいますが、「罪」とはいったい何なのか?そして人を「裁く」ということについて改めて深く考えさせられました。


「The Reader」で主演女優のケイト ウィンスレットが素晴らしい演技をしていました。ゴシップ雑誌で読んだ情報では(笑)確か彼女は今まで2回程離婚をしたのだと思いますが・・・ここまでの彼女の人生経験が彼女の演技に更に深みと重みもたせたのではないかと思えました(私は評論家ではありませんが、笑)。最近それぞれの人生における葛藤や苦しみという人生経験が人に表面では見えない奥深さを持たせてくれる気がしています。同年代女性として(多分同年代・・笑)彼女の演技を見ていて彼女の深い表現力に感動しました。

コミュニケーションっていったい何でしょう?
コミュニケーションのワークショップに参加してみて、私も改めて自分の子供とのコミュニケーションというものについて考えさせられました。

このワークショップの中ではじめに行ったエクササイズは2人組になって背中を合わせて話すということでした。
自分の話相手を全く見ないで話すというのはとても不自然なものですね・・・何だか落ち着かなくてついつい相手の顔を見ようと振り返りたい衝動にかられました。

このエクササイズを通して、人と話すときには相手の顔を見て話すということの大切さを感じました。コミュニケーションは本来ただ「言葉」を発して、そしてその「言葉」を聞くというだけでは本当は成り立たないのではないかと思います。「言葉」以上にそこには「表情」があり、「声のトーン」があり、「雰囲気」があり・・・コミュニケーションはやっぱり「心」を伝えるものなのだなぁと私は改めて思いました。

そう考えるとやはり子供と話すときも子供の目線に下がって話すということは理屈にかなっていることですよね。心を伝えるには上から投げる「言葉」だけでは伝わらないのだ・・・とこう書きながら・・・いつもの自分を振り返り反省しています(;^_^A

さて、ここまで話して、このワークショップの講師であったナディーンさんのお話をしたいなと思います。
彼女は5人の子供を育てたお母さんなのですが、彼女自身の子育て経験から話してくれたエピソードがとても素敵だなと思ったので皆さんにご紹介します。

5人の子供と言うと凄い子沢山ですよね・・・その上双子ちゃんがいたそうなので、それは想像するだけで戦場のような子育てだったのではないかと思うのですが・・・・。彼女いわく、子育て中、普段の生活の中では忙しすぎて子供一人一人と向き合ってゆっくり話したり、時間を過ごすことは難しかったそうです。

そのため彼女が工夫して考えだした方法は、子供が幼稚園や学校に通い始めると1学期ごとに一人1日ずつ「健康を祝う日」という日をもうけたそうです。

そしてその一日はその子が学校や幼稚園を休んでお母さんを独り占めできる一日にしたのだそうです。別にお金のかかる特別な事をするわけでは無く、一緒に二人でお散歩したり、ガーデニングしたり、ゲームをしたり、お茶を飲んだり、料理や家事をしたり・・・その子とリラックスした楽しい一日を過ごします。そして何よりも母親が一日その子とじっくり時間を過ごして、その子が母親を独り占めして愛されていることを実感できる一日にしたそうです。

何だかそれって凄く素敵だなと私は思いました。これはのんびりしたニュージーランドだからこそできることだと思われる方も多いかと思いますが・・・私はたとえそうだったとしても・・・このような一日って、学校を休む価値があるのではないか・・と思えてなりません。大人になってその子供が振り返ってみても、お母さんと過ごしたそのような日々の思い出は素晴らしい宝物なのではないでしょうか?

子供はあっという間に大人になってしまいますよね・・だからこそ、親と過ごす時間って凄く貴重で価値があるものなのではないでしょうか?何よりも子供が親に「愛されている」ということを実感して育つということはかけがえの無い事に思えます。これはどんなに素晴らしい学校の授業よりもその子供の人間としての基礎を作る大切なことのではないでしょうか。

大人になってその子供が困難や不安にぶち当たった時、その子供が自分を信じて前に進むのを支えるのは親の与えてくれた愛情によって育まれた自分自身への、そして世界への「信頼」ではないでしょうか。

もちろんナディーンさんのように必ずしも皆さんが毎学期学校を子供を休ませるべきだとは思いませんし、できない方も沢山いると思います。でも、親が子供のために「時間」を与えるという事は「お金」や「教育」よりも素晴らしい子供への贈り物なのかもしれない・・・と思えます。

私も自分を振り返ると、ついつい家事を終わらせるために子供にテレビを見せてしまったり、自分のやりたいことを優先させていたり・・・・自分のことでいっぱいになっていると、つい子供を後回しにして向き合う時間を作ることを忘れてしまったりと・・・反省点は山々です

でも、今ここで子供とのコミュニケーションというものを根本から考えるべきなのかもしれない・・とこのワークショップを通して自分自身考えさせられました。

さて、このワークショップで面白い宿題がありました。

一つ目は自分のコミュニケーション能力を評価するというものでした。

これは細かい評価科目が分かれていて、例えば、はっきりと発音ができているか?人に分かり易いように話せているか?声のトーンや大きさは良いか?等という評価分野から、相手の立場に立って物事を見る事ができているか?相手の話を聞きながら、相手から話を上手に引き出すように相槌を打ったり上手な質問をしたりできているか?等の質問まで様々な評価項目が22項目ありました。それぞれの項目で自己評価をし、自分にとって上達が必要な部分に関してはどのようにそれを上達させるか計画を立てるというのが宿題でした。

これははじめ難しく、私を知っている人に手伝ってもらいましたが・・・このように自分を客観的に評価するというのは大切なことだな・・・と改めて思いました。自分では、はっきりと分かりやすく話しているつもりなのに・・・本当は分かり難かったり、声が小さかったり、発音がイマイチだったり・・・・様々な問題があるものですよね。

もう一つの宿題は周りの人の会話(大人&大人、大人&子供)を観察し、それについて評価をするというものでした。その中の一つをご紹介しますね。

ある3歳くらいの男の子が「見て!これ猿だよ!」と言って自分の持っている玩具をあるお母さんに見せました。
そのお母さんは優しくニッコリと笑って「お猿さんには羽があるかしら?」と聞いたのです。男の子は考えていましたが、別の子が「猿にはシッポがあるんだよ!」と言いました。お母さんが「そうね、猿にはシッポがあるわね。じゃあ羽があるのはどんな動物かしらね?」と聞いたので、一人の子が「羽があるのは鳥だよ」と言いました。するともう一人の子が「これは鳥だ!」と言ったのです。

これは何でも無い会話ですが、子供を見るお母さんの優しい眼差しを感じる素敵な会話だなと私は思いました。
「違う違う、それは鳥でしょう!」等と言わなかったお母さんのお陰で子供はのびのびと自分たちで考えるチャンスを与えてもらえたのです。羽やシッポについての会話も子供のボキャブラリーを広げることになりますし、このような何でも無い会話の中にも子供の自立心を育てたり、思考力を伸ばす鍵があるのでは無いでしょうか?

考えれば考えるほどコミュニケーションというものは奥が深いなぁと思う今日この頃です。(*^▽^*)