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逆手に取った手首と肘を固定されると、其れを振り払おうとしても無駄だ。相手の後方に一歩足を進めるだけで、大した力を要せずに敵は床に倒される。そのまま膝で肋骨を押さえ付けられると、身動きが出来ない。男性よりも遙かに小柄な彼女にとっては、有効な技だった。が、相手は完璧に押さえ込んだつもりで、額の急所に振り下ろした掌底を強い一撃で振り払うと、一瞬緩んだ手首の拘束から逃れて、反対にがっちりと彼女の右肘から下を脚で固めた。渾身の力を込めてもビクともしないそれに、彼女は歯を食いしばって耐えた。
「降参?」
「NO」と声を絞り出す。其れに彼は少しだけ力を加える。彼女の額に汗が滲んだ。
「リタ、降参しないと腕が折れてしまうよ」
がっちりと決められた関節が軋んだ。
『もう!どうしてそんな綺麗な顔をしているくせに強いのよ』
「賭をしよう。俺が勝ったら、君が夕食を奢る。君が勝ったら、俺が奢る」
分署のジムでサンドバックを相手にしていたリタに歩み寄ったダニエルが、言った。負けず嫌いの彼女なら必ず挑発に乗ると、彼には分かっていた。負けるとは思っていなかったが、勝敗はどうでも良い。どっちに転んでも、彼女と食事が出来ることには違いない。しかし・・リタは仲々手強い相手だった。身体は自分よりも遙かに小さいが、その分スピードが有る。接近戦に持ち込む前に、嫋やかな蹴りが来る。其れをブロックして、代わりに長い手足を活かして、今度は此方が蹴りを入れると、素早く避けた。脚払いに気を取られた隙に関節を逆に取られていたのを、漸くダニエルは反対に返した。一向に降参しようとしないリタに、彼は彼女の関節を解放した。
「・・ま、未だ降参してないんだから」
「・・訓練で骨を折ったんじゃ、話しにならないよ」
汗で額に張り付いたカーリーを掻き上げると、ダニエルは溜息を吐いた。
「着替えて食事に行こう。その後は聞き込みに回らなきゃ」
「・・・・」
「・・分かった。俺の負け。奢ります」
不服そうに未だ唇を尖らせているリタにダニエルは白旗を上げたが、その眼は面白そうに笑っていた。
「被害者はどれもブルネット、年齢20歳から30歳。遺体からは犯人の精液等の分泌物は検出されず・・用心深いのかしら?それともマスターベーションだけなのかしら?どう思う?」
自分の顔ほど有りそうなハンバーガーを頬張って、其れをダイエットコークで流し込みながら、リタは殺人現場の写真を見比べている。食事時には避けたい写真と話題だが、ダニエルも職業柄慣れている。自分のハンバーガーを皿に戻すと、彼女から写真を受け取った。
「全員ブルネットか・・何か意味が有るのかな・・」
「昔フラれたとか」
「かもね」
ダニエルは、肩を竦めながらカップのコーヒーを飲み干した。署の近くのダイナーは、安い割に味は悪くない。付け合わせのチップスも油っこくないし、何よりコーヒーがお代わり自由なのを、気に入っている。カウンターに向かって、ダニエルはお代わりを頼んだ。テーブルにポットを持って遣って来たウェイトレスは、必要以上に時間を掛けてカップにコーヒーを注ぐと、彼にウィンクをして離れて行った。
「今日はもっと聞き込みの範囲を広げてみない?ガジル・アヴェニューの方まで行ってみましょうよ」
「OK」
「じゃあ、早く食べて」
言われてダニエルは、彼女が既に食事を終えていることに気が付いた。慌てて最後の一口を押し込んでコーヒーを飲み終えると、彼はリタに続いて立ち上がった。
「私、犯人を見たわ」
濃い茶色の髪の幾房かを赤く染めている女の言葉に、二人は顔を見合わせた。こういった目撃証言がガセなのは、良く有ることだ。眼を輝かせて語る女の証言の信憑性は、極めて低い。有名になりたくて、目撃したと言い張る者。想像と現実の境が付かなくて、自分が殺人鬼に襲われて九死に一生を得たと思いこんでいる者。果ては自分が犯人だと自首してくる者。死刑の決まった殺人犯に、求婚する輩まで居る。理解の範疇を越えている人間が、世の中には存在するのだ。
それでも、其処に真実が隠れているかも知れない。ダニエルは女に尋ねた。
「どんな奴だった?」
「ねえ、煙草持ってる?」
ダニエルは上着のポケットからボックスを取り出すと、女に差し出した。一本取って口に銜えるのに、火を点けてやる。
「有り難う。刑事さん、優しいのね。それに、とってもハンサム」
「それは、どうも」
隣でリタがむっとしている。ダニエルは女を急かした。
「それで?」
「えっとね、スラッとした細身の人だったわ」
「・・で?」
「眼はアンバーよ。」
『おいおい・・髪がカーリーだと言うんじゃないだろうな』
「髪が綺麗な黒のカーリーで、・・」
『それは、もしかして・・俺か?』
「すっごいハンサムなの~」
「はい、ご苦労様」
リタが女を追い払った。
「全然収穫無しだわ」
助手席で不機嫌そうな声がする。
「うん」
一日の捜査が徒労に終わる。ハンドルを握るダニエルの顔にも疲れが見える。この儘又、次の犠牲者が出るのだろうか?二人は無口でフロントガラスを見つめ続けた。その時リタの携帯が鳴った。「はい」と答える彼女に、ダニエルも耳を欹てる。
「ダニエル・・目撃者が出たって」
リタの言葉に彼はアクセルを踏み込んだ。