2021  3/30


私は昔から海というものに強く惹き付けられるたちだ。今日も、わざわざ坂を登って海を見渡しに行った。しかし求めた感傷は得られないまま家に帰った。


尾道の海は、ただそこに在るだけ、という感じがする。

こんなに近くにあるのに潮の匂いを感じたことがない。向島を挟んだ細く狭い海はいつでもしんと凪いで、こちらに不干渉だ。

大抵海辺の街というのは濃い潮の匂いが漂っていて、どこへ行ってもその匂いが鼻の奥に残るような感じがする。あの生臭い匂いがずっと怖かった。無数の生き物の死体が混じった波から、その中を蠢いている命から漂ってくる、濃い生と死の匂い。それが建物、植物、人間にまでこびりつき、蝕み、いつかあの途方もない海の底へとりこまれるような気がして。


いつからそんな風に思うようになったのか、ひとつ心当たりがある。

10歳ぐらいの時に家族旅行で行ったどこかの釣り堀。私は釣られた小さな魚が浅いバケツの中弱っていくのを見るのが耐え難くて、夢中になっている家族を置きそこいらを歩きまわっていた。案内板の地図を見ると、釣り堀は海水浴場に繋がっていて海沿いに1キロほど歩いたら着くらしい。私はそれに従うことにした。

しばらく歩き、釣り人もいなくなった頃、停船場を過ぎたあたりにゴミが寄せ集められた場所を見つけた。ぼろぼろの小さな船が雑に積まれ、ソファー、冷蔵庫などの粗大ゴミ、置き時計、薬瓶などが散らばっていた。よく見るとそれらには満ち潮の時波が置いていった海藻がカラカラになってこびりついていた。手を触れれば形を崩してしまうような脆い人工物たちは、吹きさらされ、崩れ、ただただ海に攫われる時を待っていた。

私はなんだかここにいてはいけないような気がして、そそくさと後を去った。

また歩くと、舗装路を抜け、身丈よりも高い草が生い茂る獣道に入った。海も見えなくなり、道を間違えているのではないかと不安になった。しかし戻る気にもなれず、ひたすら草の隙間が開いているだけの一本道を歩き続けた。物音もせず、周りも見えず、まるで世界に自分だけになってしまったかのような錯覚に陥った。すると、なにか甘いような、なのに鼻がもげるような匂いが漂ってきた。それは、5メートルほど先にある人の頭ほどの黒い塊から匂ってくるようだった。もしかしたら死体かもしれないなんて幼い私には発想できなくて、興味しんしんで近づくと、それはなんと大きなマグロの頭部だった。腐って、白く濁った目が落窪んで、ハエがぶんぶんと集っていた。甘い腐臭の奥に、ぐわりと濃い海の匂いを嗅いだ。

わ、と叫んだ後恐ろしくなって走って逃げた。早くこの茂みを終わらせてくれと祈りながら走り続けると、急に視界がひらけて、海水浴場に着いた。

家族連れ、水着の若い女の人達、カップルで賑わっていた。急いで人混みの中に紛れ込んだ。波打ち際で冷たい海水を触ったり砂で山を作ったりなんとか楽しい気持ちになろうとしたのに、いつまでも先程の人工物の墓場や、腐ったマグロの目が頭をぐるぐる回って、得体の知れない恐怖で手先と足に力が入らなかった。

 今思えば、あの恐怖はきっと死への恐怖だ。

わざわざ遠回りをして、舗装された広い道路を通って帰った。釣り堀に家族を見つけるともう釣りはやめて、持ってきたおやつを食べていた。バケツにはぷかぷかと5、6匹ほどの小魚の死骸が浮かんでいた。

死骸を海に投げ捨てて、車に乗って帰った。なんで平気なんだろう、と得意そうに釣った魚の数を自慢する弟を1番後ろのシートから見ていた。

車が海沿いの道を外れ、夕日にきらきら光った海が遠くなってゆくのを振り返って、今日のことは二度と忘れられない。そう思ったのだった。

 

あの日から、私は海が少し怖くなった。でも怖いというのは嫌いという意味ではない。私はいつでも海の近くにいたがった。

大阪にいた頃…埋立地の上に住み、埋立地の上の学校に通っていた頃、雨が降る日には決まって潮の匂いがした。

狭い土地に建物をしきつめた住宅街の中は周りを見渡せる場所なんてどこにもなくて、近くに海があることを忘れてしまう。

でも雨の日に限っては、雲が大阪湾から運んできた潮の匂いで、どよんとした街に確かな海の気配があった。私はよくそんな日にボー…という船の汽笛を遠くに聞いた。あれが本当に聞こえていたのか、幻聴なのかは分からない。

でもそんな日だけ、私は退屈な街が好きだと思えた。

 

よく友達と遊びに出かけた駄菓子屋のある場所は大阪湾のすぐ側で、買った駄菓子を堤防に腰掛けて食べた。

堤防の下あたりにはフジツボがいっぱい付いていて、私が動くとその上をフナムシが散った。

大阪の海はとても匂いが強く、濁っていて、絶対に触りたくないと思わせる不潔さがあった。その不潔さは、あの腐ったマグロの不潔さと同じものだった。命が腐って、ぐちゃぐちゃになった濁り。

それが怖いはずなのに、私はいつも友達がうんざりするぐらいその海辺に行きたがった。堤防に寝そべって、目を閉じて波音を聞く。 

少し体を動かすだけで海に落ちて、そして引きずり込まれる恐怖。それなのに、ゆっくりとした遠いさざめきは深い安心感ももたらしてくれた。

母なる海、胎児が聴く母親の音は波音と似ているらしい。

だからだろうか、自分と海の境界線が溶けて、同じになる感覚は幸せだった。


私はよくこんな妄想をする。

 命はくるくる廻って、終わったら最初に帰る。母親のお腹の中に、海の中に。 

そしてまた生まれ、這い出て、陸に上がる。それの繰り返し。

生きてゆくことは死んでゆくことで、だんだん深くなる見えない海に向かって歩き続けている。いつかとぷんと沈む時、私は死ぬのだ。

沈んだ体がほどける、細かく散る、溶けて混じる。海の底から漂う、あの生臭い命の匂いの一部になる。 その時の気持ちは、あの海辺で目を閉じた時の感覚と似ているんじゃないかな。少し怖くて、きもちよくて。


日常を送る中でふと、あの感覚に浸りたい時がやってくる。私は今生きているか、死んでいるか分からなくなった時に。陸の上では人間や物がしゃきしゃき動いて、永遠にそのまま続くような気がしてしまう。


忘れたくない。生きていること、死んでゆくこと。だから私は海が見たいんだろうか。ただ押し黙る尾道の海はいつか教えてくれるだろうか。いいや、始めから海は何も言っていない。いつだって、そこにいる私が勝手に何かを思うだけだ。








なにはともかく桜が綺麗だ。