実はこの記事は今年の2月に書きかけていたものです。
なぜ上げなかったのかというと、
金メダル2連覇までの過酷な道のり、、、まるで重い十字架を背負っていばらの道を歩むような過酷な行程を歩き切り、そしてつかんだ栄光、しあわせ。
もうちょっとだけ自分のためにスケートさせてというのなら、その自由になった翼で、軽々と、好きな場所で、おもいっきり飛んで欲しいと思って、特にこの記事は「重い荷物」かもしれない話だし、そっと草葉の陰(?)から見守ろうと思って、上げなかった。
まあ、こんな世間の片隅ブログが何をいっても影響もなんもないのだけどねーーー
それがなぜまた記事を仕上げようとおもったのかというと、
ゆづが国民栄誉賞を受賞すると決めたから、である。
このような大きな賞を受けるのにはかなり覚悟がいることだ、と思う。
この賞を受けようと決心したのだから、この先の彼自身の人生をどのように生きるのか、彼はもう定まっていたのだな、と思った。
そもそも、他人が何を言おうと、、、まあ、何か言われたら彼は相手の目を見て一生懸命聞くと思うが、、、それによって自分の人生の軸がぶれることのない人だったのだ、そういえば。
なので、心おきなく、書きかけのこの記事を仕上げようと思ったのだった。
【写真:Getty Images】
優勝翌日(2018年2月18日)のJOCメダリスト会見で、ゆづが言った言葉。
「もうちょっとだけ、自分の人生をスケートにかけたい」
たしか、どこか他のインタでも、これからは少しだけ自分のために滑らせてほしいって言ってた。
この時は、いったい誰に「もうちょっとだけスケート続けさせてください」って言ってるのかしら?と、すごく不思議だったけど、
選手団帰国後の日本記者クラブの会見(2018年2月27日)で、羽生結弦という人間の考え方を少し披露してくれて、ヒントが出た、のかな?、、、そんな気がする。。。
yotaさんの会見書き起こし!
↑この作業量!ありがたい!
その中にこんな答えが
ーーやめるんならやめろと?
あ、やめたいの?じゃやめなさい、っていう感じで、(両親は)もう全然困ってなかったです。覚悟がないならやるなって感じられました。ただ、先ほども言った通り、あまりにも特殊なスポーツだし、えー、何よりも先生たちがほんとに力をかけて面倒を見てくれてたので、まあ、自分の中でも絶対にやり通さなきゃいけないって気持ちもあったし、何より、小さいながらかもしれないけど、今ほどでもないかもしれないですけど、例えば9歳くらいの時に、ほんとにやめたいって思った事があって、もうやめる、じゃあやめなさい、野球でもやりなさい、となった時に、ふと思い出したのが、9歳だからまだスケート初めて5年経ってないくらいなんですが、あ、こんなところでこれを終わらせちゃっていいのかな、って思ったんです。で、その時に気付いたのが、僕もう、スケートに人生賭けてるなって思ったんですよww
ーー9歳で?!
へへへへh…だから、これ…をやめちゃったら、もしかしたらこれまでの生きていた意味が無くなるのかもしれないとまで思っちゃって。だから、なんか、そう言う覚悟はずっとあったのかなと、思ってます。
自分は日本を代表するような名コーチから並々ならぬ特別な扱いを受けてきたんだ、、、結弦少年は幼いながらも自分の状況を、そう感じ取っていた。その分、それに応えなくては、と。
春先だったか、読んだ記事に、ゆづの小学校時代、けが防止のために体育の授業を休みがちだったと、その間、自閉症のクラスメイトの面倒をよく見てくれていたと、当時の先生のお話の中にあったっけ。
学校でも、いろんな配慮をしてもらってたんだと思う。
でも、きっと、それだけではないんだろう、と思う。
自分はスケートに人生懸けてる、という自覚がどこからくるのか?
なぜ自分がこのような容姿に生まれついたのか?まるでフィギュアスケートをするために備わったかのような美しい容姿。
それが何を意味するのか?
幼いながらも、自分の運命を感じとるには充分だよな。。。と思う。
自分の人生はこのスポーツに殉ずる運命、であって、周囲からの多くの優遇もそのためなんだ、という自覚。
なんか、そんな風に幼い頃から感じていたのかな。。。と、あの会見を見て思った。
自分の人生であって、自分だけのものではない人生。
目をかけてくれた恩師、自分に期待してくれて協力してくれた周囲の人々、仙台の宮城県の人々、、、
震災後は、スケートに直接関係ない復興のことまで背負うことになり、16、17歳ころのインタビューに
「単なる一人のスケーターなのに、どうして?・・・」という葛藤があったと、
でも、そうではなくて、自分はそういう方々から応援をいただいているんだ、むしろ感謝すべきなんだと考えるようになった、と答える映像を見たことがある。←だいたいこんな風に言ってたという記憶
とてつもないモノを背負いながら、いままでスケートをしてきたのだね。
多くの人々からの期待は、一人ではとうてい抱えきれず、アスリートを簡単に押しつぶしてしまいそうなものだけど、彼はそれを力に変える。
どういうプロセスをふんだらそう出来るのか、ほんとに信じられない。
オリンピック2連覇した今、その重い重い荷を下ろし、軽ーーくなった翼で、自分のために自分の好きなものを、しばらくは滑っていくのかもしれない。
でも、その先の自分の人生、自分の役割は、俯瞰して見えてるんだね、きっと。
Continues with Wings でもモチーフにした「継承」という概念。
この先のフィギュアスケートに自分は何を「継承」するのか、もうはっきりとしたビジョンがあるんだね、きっと。
幼いころから今までたくさん頂いてきたものを、そっくり次の世代へ「継承」するつもりなのだね、きっと。
羽生が抱く”ゆづリンク”創設の夢 恩師・都築氏の願い「引退後は環境作りに従事して欲しい」 2018年2月28日(iza)
恩師の言葉に羽生は「先生、もう少し頑張って続けてくださいよ。あと3年くらいしたら、僕がやりますから」という言葉を返したという。
昨年夏に羽生が発した「あと3年くらいしたら」という言葉が具体的に何を意味するのかはわからないが、フィギュアスケーターを育成し練習にも使える専用施設、いわば“結弦ナショナルリンク”の創設を考えているのは間違いない。
「あの子自身、何か感じるものがあるのかな、と思っています。われわれにはできないけど、羽生結弦ならもしかしたらできるかもしれない。周りの人が協力してくれるかもしれない」と都築氏は期待を寄せる。
いまなら羽生が動けば、世論が動き、スポンサー企業が動き、自治体や国も動く可能性がある。羽生が国内のフィギュアスケートの環境を変えたいと望むなら、いまこそ好機かもしれない。
ゆづは自分が得た経験、知識を、自分の後輩スケーター、そして母国日本のスポーツ界に「継承」するため、遠い将来、スケートを引退したら、この記事にあるような「結弦ナショナルリンク」設立に尽力するのかもしれない。
私は、このリンクのことを考えると、わくわくして仕方がないのだ。
ゆづにゆかりのあるトップアスリートたち、スペシャリストたちが、この「ゆづリンク」に集うのだ。
優れた専門のコーチ、、、ジャンプのコーチ、スピンのコーチ、スケーティングのコーチ、ダンス、バレエ、振付師、、、の指導を求めて海外を飛び回らずとも、「ゆづリンク」に行けばそれがかなうのだ。
そして、その指導方法を見て日本の新たな指導者が育っていく。
一般向けにスケート教室の他に、フィギュアスケートのルール解説、初心者向けの観戦のコツ、スポーツ写真、衣装や音楽の講座、、、
様々な講座を設けて、それはまたリンクの運営資金となる。
そうやって、フィギュアスケートが、スポーツが文化として日本に根付いていく。
なんて希望に満ちた将来!
そんな将来がきっとやってくる!
羽生結弦選手、国民栄誉賞受賞、おめでとうございます!