「お兄様…」
チェギョンは大きな足音を立て、自分とオスカーが座るベンチへやって来たシンの顔を見て息をのんだ。
普段の冷静な兄とは別人。まるで、頭の上から湯気が出ているほど怒りをあらわにしている。

「チェギョンに何をした」
「何をと言うと?」
オスカーの方は余裕な顔で―――何となく楽しんでいるようにも見える―――シンを見上げている。
「とぼけるな」
震える拳を開くと、シンはオスカーの首根っこを掴んでいた。
「お兄様、やめて」
チェギョンが兄の手を握ると、彼は鋭い視線を彼女に送った。
「チェギョン、こちらへ来なさい」
グイグイとチェギョンの手を掴み、彼は妹を引っ張り上げた。その勢いで彼女は兄の胸の中に飛び込んでしまう。

チェギョンの胸は急速に高鳴った。こんなふうな状況だというのに、シンの腕の中にいると落ち着きと同時に、痛いぐらいに心臓が動き出す。
「お、お兄様っ。オスカー王子に失礼よ、彼は何もしてないわ」
この胸の高鳴りを隠したくて、チェギョンは兄の逞しい胸に両手をつくと、難しい顔をして睨んだ。
「―――僕は見たぞ」
「何を見たの?」
チェギョンは首を傾げた。







執務室の窓から見えた光景は衝撃的だった。オスカーがチェギョンにキスをしていたのだ。いくらチェギョンの将来の夫候補だとはいえ、出会ったその日に彼女のキスを奪うなど、言語両断。気が付けば、シンは部屋を飛び出し二人のもとへ向かっていた。

一刻も早くたどり着かなければ。

心の焦りは脚の動きを速め、廊下を歩く女官や侍従たちが、目を丸くしていたが今はそんなことはどうでもいいことだ。


大きな目が不思議そうにシンを見つめる。
「―――チェギョン、オスカーにキスをされたんだろう?」
「キ、キス!?」
素っ頓狂な声がする。
「やだ!お兄様ってば、何を言い出すの?やめて。そんなことしてません」
真っ赤になった彼女は居心地が悪いのか、もぞもぞと体を動かしつま先を見つめている。


「本当だな?」
シンはチェギョンの肩を抱き、顔を覗きこんだ。

「本当よ。オスカー王子に聞いてみて」
彼女の真っ赤な顔を見つめ、それからシンはオスカーを見た。どこかこの状況を楽しんでいるかのような親友の弟。

「チェギョンの言うことは本当だろか」
「そんなプライベートなことを、兄であるシン王子に僕たちがお話するとでも?」
「オスカー王子!」
チェギョンの悲壮感漂う声が響き、オスカーは彼女に向かって優しく微笑んでいる。
「本当のことをシンお兄様へ言って!」
「本当のこと…?僕が君に“とても興味を持った”と兄上に言えばいいかな?」
「なんだと?」
「お兄様、やめて」
今にもオスカーを殴り倒しそうな彼に、チェギョンが抱き付いてきた。

「オスカー王子も、いい加減にして」
チェギョンがオスカーを睨むと、王子は肩をすぼめて見せた。
「兄上が心配するようなことは何もなかったですよ、僕たちの間には、まだ」
「まだ?」
シンの眉がピクリと上がる。
「この先は分からないと申し上げているのですよ、シン殿下」
オスカーはチェギョンの手を取ると、優美にその白い甲へキスをしてから、シンに何か言いたげな笑みを見せ、立ち去って行った。




「―――チェギョン」
「本当に何もなかったわ。オスカー王子が、『しばらくこうしていよう』って言って、私の背中を支えていただけなの」
チェギョンが必死に説明を始めた。シンは徐々に冷静さと取り戻すと、彼女を抱き寄せ額にキスをした。

「とにかく、オスカーには気を付けろ」
「お兄様ったら、言ってることがめちゃくちゃよ。だってお兄様がオスカー王子を選んだのでしょう?」
チェギョンが笑った。

―――この笑顔を自分だけのものにしたいと、どれほど願っているだろう。

「チェギョン…」
「はい」
「僕は、お前の幸せを心から願っているんだ」
「お兄様―――」
すがり付いてきたチェギョンを抱きしめ、シンはぼんやりと花の咲き乱れる庭園を見つめた。

―――手放すことができるのだろうか。

妹だと言い聞かせきた。けれども、チェギョンへの想いは日に日に強く確かなものになっている。

「あんなに小さかったんだな」
「え?なぁに?」
顔を上げた彼女に、シンは顎で白い柵を指した。

まだ、小さかったチェギョンは、あの柵と同じぐらいの背丈だった。シンが面白がって柵の中へ彼女を入れてしまい、出られなくなった彼女が大泣きしたことがあったのだ。

「本当。今からすると信じられないぐらいね」
「―――あの時のままだったら、よかった」
あの時、シンの愛情は純粋なものだった。
チェギョンへの愛をそのままの形で表現できたのに。

「そうね……。でも、時間は止められない」

時間は止められない。


そうだ、その通りだ。
シンはぎゅっと目を閉じた。この大事な宝物を、手放すときが近づいてきている。

「チェギョン?」
見上げてきた彼女をじっと見つめ、シンは兄の顔を取り戻そうと必死だ。
「今夜は一緒に映画でも観ようか、久しぶりに」
「いいの?」
嬉しそうな彼女の頭を撫でると、
「たまには息抜きも必要さ」
彼は優しく微笑んだ。



*****



あれから頻繁にオスカー王子が訪れる。チェギョンはそれなりに楽しい時間を過ごしていた。
宮殿内の人々は、チェギョンの未来の夫としてオスカー王子を認識しているようだ。
―――兄のシンを除いて。


サクサクと音を立てながら、厩舎へ向かう。天気の良い今日は、オスカーを乗馬をする事になった。
「お兄様があんなに失礼な人だと思わなかった」
プリプリとチェギョンは怒りながら、オスカーに愚痴を言った。
「シンは、君が大事なんだよ」
「それにしても、オスカー王子を目の敵にしているでしょ?」
「確かにそうだね」
余裕の表情のオスカーに、彼女は尋ねることにした。

「ずっと聞きたかったの」
「うん?」
立ち止った彼に、チェギョンは真っ直ぐ顎を上げ向かい合った。

「―――どうしてなの?」
オスカーの言動は何か意図的なところがあると、彼女は感じていた。
「こうして二人きりになると、あなたは途端に友達になる」
「そうかな」
「そうよ」

人目があるところではさも“チェギョンに夢中”のようなそぶりを見せるオスカーが、人目がなくなると急に紳士らしい距離を保ち、友人の枠へおさまっている。

「オスカーが私に興味がないことは、“私が”一番よく知ってるわ」
彼が笑った。

「興味がないとは、これまた大袈裟な言い方だね」
「じゃあ、言い直すわ。オスカーは私のことを一人の女性としては見てない」
彼女が言い切ると、彼はふっと口の端を上げ腕を伸ばして木の枝から1枚の葉をちぎっている。


「―――僕たちは、愛し合うことはできないよ」
「オスカー…」
「チェギョン、君には心に決めた人がいるだろう?」
チェギョンはハッと息をのんだ。まさか、オスカーに自分の心を見透かされているとは思っても見なかったから。

「兄上、シン王子だね」
「違うわ」
「誰も聞き耳を立ててないよ」
彼が笑う。それから真面目な顔をしたオスカーは、再び枝の葉をちぎった。

「―――シンお兄様は兄なのよ」
「だから?」
「だからって?だから、この想いは封印するべきものだわ。こんな道理に反すること、おかしいもの」
「そうかな?」
ちぎった葉を人差し指と親指でつまんだまま、オスカーはクルクルと回している。

「そうよっ。兄と妹は、永遠に兄と妹よ」
チェギョンはオスカーから視線をそらした。
「―――シンとチェギョンが、“本当に”兄妹なら、そんなふうに惹かれ合わないよ」
「え?」
オスカーの言葉に彼女は反応した。

「惹かれあう…?」
「そうだろう?」
そんなことも分からないのか、とばかりに、オスカーが呆れた顔で笑った。

「誰から見ても、君たち二人はお互いを強く意識している。きっとこの宮殿の人たちは、それが普通になっていて気づかないだけだ。僕みたいに外から来た人間なら、すぐに見抜くさ」
オスカーの言葉に、彼女は唖然として口を開けたままだった。

「で、でも。お兄様は、私のことを妹としてしか想っていないわ」
「君たちが兄と妹だと知らない人間が見たら、恋人同士だと思うよ。100%ね」
「そんなっ!」
チェギョンはオスカーを見つめた。


「きっと、何か理由があるんだよ。君とシンが“兄と妹”でいなければいけない、理由が」
「―――理由?」


オスカーの言葉は本当だろか。
自分とシンは、兄と妹でなければいけない理由があるのだろうか。


「どんな理由…?」
チェギョンが囁くと、オスカーは静かに首を振った。

「分からない」
「そう…」
「チェギョン」
「はい」
オスカーがチェギョンの両手をとった。

「僕は君のことが友達として好きだ」
「ありがとう、私もよ」
うん、と大きく彼は頷き笑う。
「その大好きな友達が、不幸になる事より、幸せになる方がずっと嬉しいさ。だから、君たちが何故“兄と妹”で居なければいけないのか、その理由を二人で探そう」
「オスカー…ありがとう」
掴まれた手をぎゅっと握り返し、チェギョンは笑った。


「ん?」
オスカーが顔を上げ、ニヤニヤとしている。
「どうしたの?」
「君のシンがこっちへ来るよ。ちょっとからかおう」
そういうとオスカーは身をかがめ、チェギョンの耳元で囁いた。

「兄上が悪魔のように睨みつけるぞ。僕とチェギョンが仲良くしてると勘違いして、嫉妬してるんだ」
オスカーの言葉に、チェギョンは目を見開いた。