「チェギョン!これはどういうことだ」
「ユル君、どういうことって言っても…」
例の会見の後しばらく途絶えていたユルとの連絡だったのに、ほとぼりが過ぎたころになって、やたら頻繁に連絡をしてくるようになった。それはそれで喜ぶべきことなのかもしれないけれど、チェギョンの本心は迷惑に感じていた。最近ではときどき着信を無視することもあった。
 
ほんの少し良心が咎めるけれども、かつてあれほどまでに想っていたはずの相手が、面倒に思えるなんて自分でも信じられない。ユルを愛していると思っていたけれど、本当のところはどうなのか自分でもわからなくなっていた。
「タブロイド紙に書かれてることは、嘘だろうね?」
先日のジュエリーの展覧会での様子が報じられているのだ。シンと微笑みあうチェギョンの姿が捉えられている記事の事だろう。
「読んでないから分からないわ」
電話の向こうでキンキンと怒鳴るユルの声が遠くなるように、端末を耳から遠ざけた。
「貴族の息子がチェギョンの相手になるなんて。はっ!そんなわけないさ。貴族の男ほど鼻持ちならないプライドだけのヤツはいない。親の七光りで生きてるんだから」
 
以前はユルのこうした考えにチェギョンも賛同する部分があった。けれども今は彼は自分にないものを持っている人たち全般に対して、コンプレックスを持っているのではないかと気づいた。そしてもしも、ユル自身がそうした世界に所属することになったとしたら、今、彼が持っている考えは、煙のように消えてなくなるのではないだろうかと、チェギョンは思っていた。
「――――そうとも言えないと思うけど…」
チェギョンは小さな声で答えた。
 
弟のチェジュンの教授役であるイ・シンは金融全般の知識と、時世を読む先見性に優れている。それは彼自身の努力と才能だ。親がどうだとか、彼自身の階級がどうだとか、そういうものが無くてもシンならば今の地位を築いていただろう。
「とにかく!!この記事は事実じゃないってことだね?」
「うん」
それはそうだ。シンと自分は恋愛関係にはない。彼は単にチェジュンの教授であるだけなのだから。そう思うと胸の奥がちくりと痛くなった。あの優しく穏やかで、少しだけお茶目な彼の瞳が浮かんでくる。彼が傍にいるだけでドキドキするくせに、ふっと力を抜いて自分らしくいられる。
「チェギョン?聞いてるのか?」
「え?あ、ああ、ごめんなさい」
「それで?どうなった?」
「なんのこと?」
イライラした声が聞こえてくる。
 
「僕たちの事だよ。僕の会見で国王の気持ちは動いただろう?」
どこか得意げな雰囲気にチェギョンは彼に聞こえないようにため息をついた。
「ある意味ではそうかも…」
「じゃあ、そろそろ結婚のお許しも出そうだね」
「そうはどうか、分からないけど」
「君から父君に働きかけてくれよ。なにしろ僕は『時の人』になってしまって身動きが取れないんだ。ちょっと姿を見せるとカメラに取り囲まれてしまう」
チェギョンは恐る恐るずっと感じていたことを質問することにした。
「あの…ユル君?カメラに囲まれること…好きなの?」
自分は生まれた時から好むと好まざると、常に他人の目を気にして生きてきた。もしできるのなら、ごく普通の女の子に1日だけでいいからなりたいと思っているのに。そういったチェギョンの気持ちをユルは理解していると思って来たけれど、もしかしたらそれは違うのかもしれない。カメラに囲まれて嬉々としている様子の彼とは。
 
「有名人になることは、僕の仕事が増える事につながるんだ。そんなこともわからないのか?これだから、世間離れした王女様は困るな」
「ご、ごめんなさい」
チェギョンは咄嗟に謝ってしまった。そして大きく納得してしまった。そうなのだ。ユルと自分は根本的に全く違う価値観を持っているのだと。
 
 
****
 
 
「浮かない顔してると、またいろいろ書かれるよ」
宮殿の大きな図書室は、図書館と言ってもいいレベルだ。シンは王太子に授業を終えて、物音ひとつしない長い廊下を歩いていた。すると図書室の扉が開いてて、ヒョイと中を覗くとチェギョン王女がぼんやりと出窓に腰かけて外を見ていた。
 
彼の言葉に首をかしげた拍子に、長い髪がはらりと肩から滑り落ちていく。そして大きな目があっという間に潤んできて、ぽろりと涙が頬に伝っていく。
「どうしたんだ?」
シンは慌てて彼女に近づき、その涙を親指で拭った。チェギョンは首を横に振り答えない。彼は彼女の脇に手を入れて立たせると、自分の胸に抱き寄せた。艶やかな髪にキスをすると、フローラルな香りがふわりと漂う。
抱きしめてわかった。彼女が一層やせ細っていることに。人前では気丈に振る舞い、スキャンダルなど何もなかったかのようにしているけれども、彼女はとても傷ついている。だからシンは腕に力を込めた。
 
「気するなって言っても無理だろな」
ラフなTシャツ姿の彼の胸元は―――最初の頃はスーツ姿でいたけれども、チェジュン王太子が「普通の服装で来てくれた方が、リラックスできる」というのでその言葉に従っている―――チェギョンの涙で湿ってきた。生暖かい水滴が冷たくなり、やがて体温で乾くだろう。
 
「…この涙のように、君の心が乾く時がくるよ」
「そ、そしたら、まるで、な、涙なんてなかったみたいに…も、元通りになるの?」
「なるさ」
すると彼女が微笑んだのが分かった。彼は指を小さな顎の下にあてがい、それから上を向かせた。
「君に会う時の半分は、泣き顔だな」
チェギョンが目を瞬いた。
「僕もどうかしているけど…泣き顔を見ると胸が痛くて苦しいよ」
「シン君…」
「本当は君の笑顔が見たいんだ。思い切り心の底から笑っているチェギョンが見たい。どうしたらそうできそう?」
彼の言葉に彼女が何か答えようとしているのが分かった。
「うん?言ってごらん」
「でも、叶わないと思うから」
「言わなかったらできないままだ。出来るかどうかは、あとで考えればいい」
しばらく黙っていたチェギョンが、静かに言った。
「普通の女の子に、1日だけなってみたい」
 
 
****
 
 
「シーン君っ!早く、早くっ」
チェギョンは後からのんびりとついてくるシンに大声で声を掛けた。
「そんなに急がなくとも、アトラクションは逃げないよ」
「いいから、早くして」
彼女の催促に彼は応じてくれた。大股で彼女に近づいた彼が、迷うことなく二人の手を繋ぎ、そして目的の場所に向って歩きだす。
 
一日だけ普通の女の子になりたいのだとシンに告げると、本当にそうなる機会ができた。チェギョンの知らないところでシンが全てを整えてくれた。二人きりでテーマパークに来ている。国外のこの場所では、チェギョンは普通の女の子だ。警備の人間も数名だけいるはずだけれども、それも周りに紛れ込んでいてわからない。だからチェギョンは思い切り楽しもうと思っている。
 
「ねえ、あの可愛いティーカップに乗りたいって言ったらイヤ?」
はちみつのポット抱えたクマがついたティーポットにシンは乗ってくれるだろうか。ちらりとアトラクションの建物を見た彼が、一瞬、小さく喉を鳴らした。
「いいよ」
「本当?」
「僕はチェギョンに嘘はつかない」
 
――――チェギョンに嘘はつかない。
 
なんて素敵な言葉。
 
「うん、じゃあ乗りましょ」
「フム…なかなか人気だな」
「子どもの気持ちになってみんな遊んでるの」
「そうだな」
ふっと柔らかな表情になったシンにチェギョンの心臓が跳ねた。多分、確実に、認めたくないけれど。
自分はシンに惹かれている。強く。生まれてから初めて、こんなにも強く他人を求めている。
「どうしてかな」
「うん?」
「ううん、何にもない。それより早く並びましょ」
グイグイと彼の腕を引っ張りながら、彼女は考えた。
 
どうしてユルのことを「愛してる」などと思い込んだのだろうか。ただたまたま親しくなっただけの異性だった今なら分かる。ユルとのキスには何も感じない。けれどもシンとのキスは…グルグルと世界が回り、ずっとずっとこうしていたいと感じさせてくれる。
 
「ふーん…これまた、グネグネと作ってあるんだな」
建物の構造に彼が感心していた。
「前はね、家族で来たから並ばなかったの」
「それはそうだろうね。君の父君が何分も並んでいる姿は思い浮かばないよ」
「それって、普通じゃないってこと?」
半分は冗談で頬を膨らませた。
「君たち家族にとっては普通の事さ。他の多くの人よりずっと、他人の目にさらされてるんだ。それぐらいのサービスを受けて当たり前だよ」
「シン君…」
「言っただろう。『普通』って言葉ほどいい加減な言葉の定義はない。どんなこともその人に照らし合わせたら、普通なんだから」
チェギョンは繋いだ指にギュと力を込めた。
 
――――大好きって言えたらいいのに。
 
自分の気持ちは気づいた。けれど、彼の気持ちがわからない。