「これだから見なきゃよかった…」
チェギョンは手にした端末を乱暴に手から滑り落した。分厚い絨毯が敷かれていたおかげで、落とされたそれは傷一つつかなかった。それさえも今の彼女にとっては忌々しい出来事でしかなかった。
―――チェギョン王女の“とんでもない”フィアンセ!!
大々的な見出しが頭から離れない。彼女は曲げた膝の上に腕と顎を載せた。
大好きな彼との結婚はどうなってしまうのだろうか。
ことの発端はよくあるスキャンダルだった。
一国の王女であるチェギョンは、いまどきの若い女性たちからしたら信じられないほど箱入り娘だ。女子学生ばかりの学生時代を送っていたせいで、友人に紹介されたユルとあっという間に恋人同士になった。恋に免疫がない彼女にとって、人生で初めてできた恋人という存在に舞い上がってしまったのだ。
『彼の事しか考えられない。』
それは順調に進んだかのように見えたのに。何がどうなってしまったのか、今は非難の嵐の中に立たされている。
ユルに隠し子がいたというのだ。最初、チェギョンはその噂を一蹴した。彼に尋ねたところ「あれは単なる噂だ」と言うから。
けれども、それが彼の言う通りではないことが明らかになった。次々と新たな証言が出てきて、とうとう彼の言い訳につじつまが合わない箇所が出てきたから。
それでもチェギョンはユルを信じている。
「だって、ユル君が『過去の事だ。今はチェギョンを愛してる』って言うんだもの」
今日も彼女は一人で呟いた。そう口に出すと彼を信じようという気持ちが大きくなるから。毎日少しずつ―――けれども確実に―――大きくなっていく疑惑を打ち消したい。
****
「チェギョン王女、こちらをご存知ですか」
出たくもない公務に出なくてはならない立場だ。チェギョンは『スキャンダルなど知らない』とばかりにとぼけた顔をしている関係者たちに囲まれて、とある会合に出席していた。途上国の子どもたちを支援する団体の会合には、年配が多い。声を掛けてきたのは、チェギョンよりも10歳ばかり年上の若手の女性の起業家だ。年寄りがほとんどの出席者の中で、ちらほらと混じる若手たちは、みなとても賢くやり手だった。そうした若い人たちは、自信に溢れ、生きがいを見つけ真っ直ぐに進んでいるようにチェギョンには見えていた。
「いいえ」
首を横に振り、彼女は丁寧に答えた。起業家の横にたっている男性はとても長身だ。少しばかり首を上げて彼の顔を見ようとした時、先に返事がした。だから彼女は長身の男性の顔をよく見ることができなかった。
「あら、それは驚きですね」
ニッコリと笑う相手の女性の言葉に、チェギョンは首をかしげた。どういう意味だろうか。
「イ・シン卿ですよ」
「イ・シン卿…?」
『卿』と言うからには貴族だろう。王侯貴族たちの頂点に立つ国王を父に持つチェギョンは、貴族の名前と爵位は空で言える。ところが、何故だかその名前に覚えがない。少しばかり考えていた様子の彼女に、ふっと微笑みの声が聞こえたような気がした。
顔を上げた瞬間。まるで時が止まってしまったかのように感じた。真っ黒な髪と漆黒の瞳のハンサムな男性が、彼女を見下ろしていたから。
噂の王女は、儚げな美少女だった。
ピスタチオのようなグリーンのワンピースは、クラシカルなデザインだ。小さな白い丸襟に、ノースリーブ。コクーンな膝上のそれは、襟とお揃いの白いポケットが付いていた。これで真っ白なグローブをはめていたら、正に、昔の映画の女優のようだ。
そんなクラシカルなデザインなのに、彼女にはとても似合っていた。真っ直ぐな栗色の髪は、ベルベットのヘアバンドをしていた。大きなクリクリした瞳に、細く整った鼻と、ピンク色の唇。
世の中の男たちが夢に見る“ヴァージンな恋人”そのものではないか。
シンは柄にもなくゴクンとつばを飲み込んだ。
「イ・シンです、チェギョン王女」
細い手を掴み、その指先に礼儀正しく口づけた。見る見る間に彼女が真っ赤になっている。折れそうな首も鮮やかなピンク色。きっとあの下に続く肌もそうなっているだろう。
―――何を考えているんだ。相手は子どもだぞ。
己の節操のなさに彼は唸った。いつからこんな少女趣味に走ってしまったのか。とはいえ、目の前の王女は、確か20代の半ばのはずだ。ティーンエイジャーだと言っても通じそうだというのに。
「王女が私を知らないのは無理がないでしょうね」
気恥ずかしそうな彼女にわざと謎かけをしてみた。
「え?」
「父が1年ほど前に亡くなったので、本来なら父が受け継ぐべき爵位は、祖父の後は僕に授けられたのですよ」
その言葉で分かったのだろう、チェギョンの瞳が同情と慈悲に光った。
「お父様のこと、残念です。まだまだ、現役だったというのに」
シンはニッコリと笑い返した。
「長患いだったのです。父本人も僕たち家族も、充分にお互いに気持ちを伝えあえるだけの時間がありましたから。」
「でも…」
ふいに彼女の白い手が伸びてきて、彼の両手をそっと包んできた。その時、シンの心臓もまた彼女の温かな手に包まれたような気がした。
****
「さあ、どうぞ」
「ありがとうございます」
シンが差し出した皿の上には、カットフルーツが盛り付けられている。チェギョンはそれを受け取ると、一粒のブドウにフォークを刺した。それを口元に持って行く瞬間、彼の目がきらりと光ったような気がしたのは、彼女の気のせいなのだろうか。
あれから二人は会話が弾んだ。チェギョンにとって初めての経験。見知らぬ若い男性と、話が弾むなんて。
彼はスポーツが好きなようだ。実はチェギョンも大好きだった。余り世間では知られてないけれども、体を動かすことが得意なのだ。もちろん観戦するのも趣味だった。
「それで、この前のゲームについて王女の見解は?」
「チェギョン、です」
グラスを口元に持っていた彼の動きが止まった。
「私の名前は“王女”ではありません」
「…知ってますよ」
彼がからかうように笑う。その笑顔にチェギョンは釘づけになった。30代前半だというシンなのに、急に少年のように見えたから。
「じゃ、じゃあ…チェギョンって呼んで下さい」
「それなら僕の事は、シンで」
「え?それはダメです」
チェギョンは言い返した。
「どうしてですか?ファーストネームで呼び合う方が、フェアですよ」
「年上の方には敬意を表しなさいと躾けられましたから」
当然のことを答えると、彼が声を立てて笑った。そして―――。
ツンツン
長い指が彼女の頬をつついた。
「そんな言い方をされたら、僕がたいそうなオジイサンに思えてしまうな…」
驚いたのだろう、大きな目が見ひらき固まっている。余りの愛らしさにシンは彼女を自分の腕の中に引き寄せたくなった。それを堪えるのは結構な忍耐力が必要だ。
「ち、ちがいます…そ、そんな意味で申したのではないのです…」
うつ向いてしまった彼女の耳は、またもや真っ赤になっている。彼はそんな彼女の様子に気づかないふりをして、皿の上に乗っているパイナップルにフォークを刺し、彼女に差し出した。
ゆっくりと顔が上がってくる。
「美味しいですよ、これ。完熟だな」
キョトンとした彼女の目の前で、フォークを揺らしてみせる。そしてグイっと強引に彼女の口元に近づけた。
「さあ、食べて。おっと、パイナップルアレルギーだった?」
王女が出席すると分かっている会合で、そのようなアレルギー源になる食材が出されることはないと確証しているうえで、わざととぼける。彼の意図が通じたのだろう、ふっと彼女の表情が和らいだ。
「違います」
「それは良かった。このパイナップルが味わえないとなると…とても損だからね」
ピンク色の唇に近づけると、彼女が口を開けた。