小学校で学んだ塩分濃度の求め方を使ったことはない。『濃度=食塩の重さ÷食塩水の重さ×100』だったと記憶しているが、合っているだろうか? 学校で習う勉強のほとんどは、知らなくても、分からなくても、生きていける。だが、子ども心に勉強をする意味は何となく分かっていた。本が読めるのは文字やその言葉の意味が分かるからで、買い物へ行けるのはお金の計算が出来るからだ。知らなかったことを知ることで世界は広がっていく。

 

 

 子どもたちの夏休みが始まって2週間が過ぎたある日のことである。俺は地下鉄を乗り継いで婆さんが暮らしているサービス付き高齢者住宅へ向かった。施設の清掃について話を聞いてみてはどうかと誘われたのだ。現地に到着し、まごまごしながら職員通用口を探していると、建物の裏側にある扉が開いた。

「あんた、こっちよ!」

 

 

 

「かっ、会長! ご無沙汰しております」

婆さんはいつだってグッドタイミングだ。きっと待ちきれずにうろうろしていたのだろう。

「堅苦しい挨拶はいらないわ。早かったわね! まだ欣ちゃんは来ていないから、アタシが案内するわ」

「あっ、いや……、会長はここの住人で清掃員ではないのですから……」

「毎日ヒマでヒマで仕方がないから、手伝ってあげているのよ」

「そっ、そうなんですね……。お元気で何よりです」

「ほらっ、行くわよ」

俺は入り口に置いてあった消毒液を手指に吹きかけ、入館手続きを済ませて中へ入った。ピカピカの床に真っ白なカーテン、ロビーには立派なソファーが並び、グランドピアノまである。

「ホテルみたいですね。優雅な暮らしで羨ましいです」

「孫に勧められて入居したけど、落ち着かないわ。アタシは駅の清掃員詰所の方がしっくりくるのよ」

「あそこは住むところじゃないです……」

婆さんの背中を追いかけていくと、正面玄関に着いた。

「ここが受付(フロント)よ! この女の子は玲子ちゃん」

 

 

「あっ、会長さん、こんにちは。こちらの方はお客様ですか?」

「新しく入る清掃員よ!」

「あっ、いや……、まだ入るって決まったわけじゃ……」

婆さんはいつだって先走る。今日ではなくて明日を生きているのかもしれない。玲子さんに挨拶をしていると、正面玄関から二人組の男性が入ってきた。

「あら、若い衆が散歩から帰ってきたわ」

「わっ、若い衆? いっ、いや……」

 

 

どう見ても70歳は超えているであろうお爺さんだったが、90代半ばに差し掛かろうとしている婆さんにとっては若い衆なのだろう。それは断じて間違えていない。

「おぉ、会長さん! この人は会長さんのところの若い者かい?」

「そうよ!」

「いっ、いや……、俺は入団も入会も入部もしていない……」

「あん? 何か言ったかしら?」

「いっ、いえ……」

「この二人はね、大統領と富士雄さんよ。右側が……」

「そのまんまじゃ……」

「あん? そのまんまトガシがどうしたって?」

「トガシじゃないです……」

「まぁ、いいわ。次は用具室へ行くわよ」

「はっ、はい……」

婆さんはいつだってコンシェルジュ(案内人)である。どれだけの迷える子羊を導いてきたのだろう。俺もそんな子羊の一匹、いや、一人である。

 

 

 

 さて、清掃用具室へ足を運ぶと、真の会長こと北大路会長が何かを包んだ新聞紙を持って壁を見つめていた。お年を召されたとはいえ、目力は衰えず、眼光も鋭い。

 

 

「ごっ、ご無沙汰しております。私などを気にかけてくださいまして、本当にありがとうございます」

「清掃氏くん、久しぶりだな。体調はどうだね? ご病気のことは会長さんから聞いているよ」

「体調は日々変化していますが、寝たきりの一日にならないように頑張って体を動かすようにしています」

「そうか……、ならば週に一度でも働いてみないか? 分かっているとは思うが、難しいことは何もないし、疲れたら休めばいい。これは清掃氏くんのリスタートにあたって、私からの贈り物だ」

「なっ、何でしょうか?」

 

 

北大路会長から手渡された新聞紙を開くと、包まれていたのは自在ほうきのスペアだった。何だか懐かしい匂いがする。便器を磨きながら自問自答をした毎日、婆さんたちに叱咤激励された日々、通信制高校に通いながら清掃の仕事を続けた妻のこと、自分が歩いてきた道とそこで出会った景色を思い出さずにはいられなかった。

 

 

「何しんみりしているのよ。アタシからあんたに言いたいのは、人が働くのはお金を稼ぐ為だけじゃないってことよ」

そう言われれば、これまで働く意味について深く考えたことはなかった。婆さんが言うように収入を得る為だったり、理想の生活を実現する為だったり、あるいは社会貢献や自己の成長、将来の安定の為といったことが思い浮かぶが、他には何かあるだろうか?

「働く意味ということでしょうか? 難しいですね……」

「難しくないわ。簡単よ! 働くとね、人や社会との関係が保てるの。新しい世界が広がっていって知らなかった知識を学べるの。ううん、それだけじゃないわ。出会ったばかりの誰かから勇気や元気をもらえることだってあるわ」

「……………」

「アタシはね、思うのよ。病気を治すのは医者の仕事だけど、人を救うのは人でしかないって……。体の中にある悪いものを取り除くことは出来なくても、笑わせてあげたり、頑張ろうって気持ちにさせてあげるのは医者じゃなくても出来るわ。人を救うっていうのは、病気を治してあげることだけじゃない。生きようって気持ちを、生きたいって思いを湧き上がらせてあげることよ」

「かっ、会長……」

婆さんの言葉が胸の奥深くまで沁み入った。人の寿命と希望の大きさが関係しているのだとしたら、それを膨らませることが出来るのは医者だけではない。いや、むしろ、家族や友人といった身近な人たちが息吹を吹き込んでくれることは少なくないだろう。俺が生きることで、誰かの希望になることだって出来るかもしれない。

「たまにはババアの屁理屈を聞いてみるのも悪くないと思うわよ。決めるのはあんた自身だけどね」

 

 こうして俺は清掃員に"復職"することになった。これからどんな日々が始まるのだろうか。どんな毎日であっても希望は捨てずに生きていきたい。

 

文:清掃氏 絵:似顔絵師きえ・桃染とうか・清掃氏

 

 

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