法華経の十如是と大智度論の九種の違い② | kitani1のブログ

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前回投稿した法華経の十如是と大智度論の九種の私の考えを並べておく。

「体」は「如是体」
「法」は「如是相・如是性」
「力」は「如是力・如是作」
「因」は「如是因」
「縁」は「如是縁」
「果」は「如是果」
「性」「限礙」は「如是報」
「開通方便」は「般若経に開かれる」
 

また、十如是は、妙法蓮華経以外の法華経には見当たらないようだ。

例えば世親菩薩の「法華論」には、五何法として示される。

「何等法、云何法、何似法、何相法、何体法」である。

サンスクリット本でも同様らしい。一例を挙げると

「どの諸法、どういう諸法、どのような諸法、どういう相を持った諸法、どういう自性を持った諸法」

となっている。

正法華経では「從何所來諸法自然。分別法貌衆相。根本知法自然」となっている。

 

これらの大きな違いは、「如是本末究竟等」にあたるものがない。

これは鳩摩羅什三蔵が付け足したのだろうか。

鳩摩羅什三蔵の持っていた法華経は、鳩摩羅什の記憶の中であり、「あった」とも「なかった」とできない。

仏教学者は「なかった」を前提に考えている。あったとの証拠がないからだ。

 

以前も書いたが、「如是本末究竟等(本末究竟して等し)」が肝だと考えている。

釈尊の成道に当てはめると、

「釈尊の悟る前の相(九界)と釈尊が成道した報(仏界)が究竟して等し」となり、十界互具が成立する。

十界互具はこの十如是がなくても、次下の「四仏知見」で証明できる。

 

従って、鳩摩羅什三蔵の付け足しとしても、法華経に一念三千が説かれている事には変わりない。

 

私は大智度論から言えば、「あった」と考える。

龍樹菩薩は法華経を参考にしたのではないかと考えている。