「私は神の子、神だ」と多くの新興宗教の教祖は言う。
その中にあって、イエスが処刑後に復活した奇蹟が、神の子の証明という。
しかし、客観的な復活の証拠がない。信者だけが言っているにすぎない。
神が本当に、人類に対して愛があるなら、客観的な証拠を示すべきだろう。「内輪の話を信じろ」といわれても多くは納得しない。
多くの西洋の姿は、争いを好み残虐な姿である。その中で愛を訴えたのは、確かにすばらしいことと言える。
しかし、「神の存在を信じろ」と言うなら、内輪話ではなく客観的な証拠を示して、人類を導くべきだろう。創造主ならばそれぐらいの力はあるだろう。
そうでなければ、仏教の姿には勝てない。