食べる楽しみは
じつは人生のかなり大きな部分を占めている。
従ってうまいものを創造する手腕は
ノーベル賞並みの評価を受けてもいいはずだ。
しかし味への評価というやつは
個人の好みにも大きく影響されるのだ。
さいはてテレビの昼のワイド番組で
料理コーナーを担当して三年目に入るディレクター・
鯵庭 功徳之(あじにわ くどし)は、
チェックしておこうと思っていたローストビーフ丼を
食い損ねた。
会議が長引いたせいだ。
むこうのテーブルで営業の若いのが
うまそうに食べているのがラストの一つらしかった。
営業の若造の幸せそうな表情から察するに
かなりの味らしい。
次の日も、腹立たしいことにギリギリで逃した。
12時すぐに食堂へ殺到したというのに。
もっと編集を早く切り上げて、12時前にくればよかった。
このところ、
新登場のローストビーフ丼は社員の中で人気急上昇で、
個数限定も手伝って、
日に日に売り切れが早まっているという。
なんということだ、
この地域で最も味にはうるさいと自負する俺が、
お膝元の自分の会社の食堂の評判料理の味を
未だに知らないとは…
さいはてテレビの社員食堂は社屋の5階にあった。
もとより日替わり定食やカレーライスや
ラーメンなどの一般メニューを提供する
当たり前の大衆食堂っぽいところではあった。
そして特大ハンバーグや
大盛りナポリタンスパゲティーなどのスペシャルメニューも、
安い多いということでそれなりの人気はあった。
ところが…
あの料理人が来てから、いささか様子が変わった。
いつも親しげに大盛りにしてくれていた
調理助手の三人のオバさんたちの態度が、
妙にテキパキして自信に満ちはじめたかと思うと、
彼女らは、客の一般社員に対して
どこかしら上から目線めいたものを向けるようになった。
明らかに誰かの感化を受けているような態度…
あいつのせいだ。
ある日突然伝説の料理人がやってきたからなのだ。
こいつはまた、いわくつきの料理人でもあった。
その料理人・織佐 真多郎(おれさ まだろう)は
かつてオーナーシェフとしてレストランを経営していた。
イタリア、フランスをはじめ海外を渡り歩いて
修行をしたというが、
どの程度の修行なのか確認したものはいない。
とにかく、人が思う以上に、
自分はカリスマなのだと思い込んでいる、
(さまざまな意見を参考に、公平にみても)
早く言えば鼻持ちならない人物だった。
確かに料理の腕は巧みで、人を虜にするところもあった。
その味を求めてはるばるたずねてくる客もあった。
しかしその態度は尊大すぎた。
客に注文をつけるばかりか、
自分の作る料理以外はすべてが偽者だと
平気で断じるところがあった。
一種誇大妄想の類ともいえる。
したがって客や他店とのトラブルは数知れなかった。
そしてあるとき必然的に
決定的に運命を変えるトラブルが起こったのだ。
織佐の腕前とその高慢さが逆に評判となり、
レストランに客が押しかけるようになって、
本人が得意の絶頂にいた頃だ。
ある日レストランにやってきた一人の身なりのいい客は、
織佐に勝るとも劣らぬ高慢な、
我こそはとグルメを自認する紳士だった。
その紳士は最高級のステーキをオーダーしたが、
一口口にするなり、
「まあ、こんなもんだろうな」
と失望の色をあらわにした。
サーバーをしていたウエイトレスが、
気を利かせたつもりで、
「お気に召しましたでしょうか」と聞くと、
「悪くはないよ、まあまあだね」
と木で鼻をくくったように答えた。
ウエイトレスはすぐさまこれを織佐にご注進に及ぶ。
織佐はこれしきのことにたちまち逆上し、
厨房をほったらかして紳士の前に飛んできた。
さらに、口を開くなり
「どこが気に入らないんですか!」
と食って掛かる。すでにけんか腰だ。
紳士はシェフがいきなり目の前に現れたのに面食らったが、
「うまいことはうまいが、肉が柔らかすぎると思う、
パリの三ツ星のやつは適度な歯ごたえがあったんでね」
と落ち着いて答えた。
「それは本物じゃないよ、あんたは偽者を食ったんだ」
織佐は我を忘れていきり立つ。
「客に対してその言い方はないだろう、
私は世界を食べ歩いている。
世界のシェフの腕と肉の味を知っている」
紳士も言い返す。
「偽者の腕と味だろう、ここは本物を食わせるところだ、
あんたのような人に食わせるものはない、
もう帰ってくれ」
ついに織佐は客を追い出そうとする。
「なんという無礼な料理人だ、きみはクレージーだ」
紳士は立ち上がる。
「早く俺の店から出て行け、金はいらん」
「バカにするな金は払う、それほどの価値はなくともな。
食い逃げじゃない」
「食い逃げ上等、出て行け!」
「客を盗っ人呼ばわりするな、狂った無礼者!
精神病院へ行け!」
「帰れといったら帰れ!警察を呼ぶぞ!」
「ふざけるな○違いめ!お前にシェフの資格はない!」
「足元の明るいうちに帰れ!さもないと…」
織佐は、
手近なテーブルに置かれていたフォークをつかんで構えた。
テーブルについていた客たちはなすすべもなく見守る。
「何をする気だ、
けちな料理人風情に脅される私じゃないぞ」
紳士もまた同じテーブルに置かれていたナイフを取る。
「やる気か、やってやろうじゃないか!」
織佐はさらにフォークを取り、両手に構える。
「狂った思い上がりめ、思い知らせてやる!」
紳士もさらにナイフを取って構える。
かくて、片や両手にテーブルフォーク、
片や両手にテーブルナイフを構えた
二刀流同志の決闘とあいなった。
「きえぇぇぇぇぇーっっっ!」
と、奇声を発した織佐は片手を伸ばし
その先のフォークで突きを入れる。
紳士はとっさに片手のナイフでこれを払い、
別な手のナイフで切り込む。
織佐はよけたはずみでテーブルの上に倒れ、
そのまま転がって床に落ちる。
テーブル上の、
配られたばかりのスープが次々ひっくり返り、
客たちにぶちまけられる。
立ち上がった織佐は
両手にフォークを持ったまま空中を飛んで紳士に突っ込む。
「おりゃぁぁぁぁあ!」
紳士はひらりと体をかわし、
織佐は紳士の後ろにあったテーブル上に激突。
そこにはまるごと姿作りのサーモンステーキが乗っていた。
両手のフォークがサーモンに突き刺さり、
織佐はそれをそのまま頭上に振り上げ、
紳士に向かって投げつける。
紳士はナイフを振り回し、
巨大なサーモンを空中でぶつ切りの切り身にした。
ここで、
別なテーブルに取り皿が山積みになっているのを見た
織佐は、いったんフォークを置き、
その皿を手裏剣よろしく次々と紳士へ投げつける。
紳士は両手のナイフをあやつり、
飛んでくる皿をことごとく打ち砕いた。
さらに奇声を発した織佐は別なテーブルに飛び上がり、
さらに別なテーブルへと八艘飛びよろしく飛び移る。
紳士もまたテーブルからテーブルへ飛んで織佐を追いかける。テーブルというテーブルが踏み荒らされ、
客で埋め尽くされたレストラン内を料理や容器が飛び交い、
テーブルが倒れイスが転がる。
阿鼻叫喚の惨状だが、
客たちはなすすべもなくあっけにとられるだけだ。
ついに着地した織佐は引き続き、
目の前のテーブルに乗っていた皿を料理ごと投げつける、
同じく着地した紳士は最前と同じくなんなくこれを打ち砕いた、が、この皿にのっていたのはかぼちゃパイだった。
パイが飛び散り、紳士の顔にかかり、
その目をふさぐかたちとなった。
織佐はこの機を逃さず紳士に体当たりする。
さすがにひっくり返ってしまった紳士に馬乗りとなり、
その喉にめがけ両のフォークを振り下ろした。
その瞬間、
ばあんと乾いた音がして、
フォークは二本とも織佐の手の下で折れて吹き飛んだ。
「止めなさい、なにをしているんだ、あんたたちは!」
凛とした声が響いて、つかつかと登場したのは、
まだ煙を吐いているリボルバーを構えた制服姿の警官だった。騒ぎを聞いて駆けつけた近所の交番のお巡りさんが、
保安官よろしく見事にこの場を治めたのだ。
(前編終わり 後編に続く)