“友よ(師よ)、さらば”

私の齢(83歳)にもなると、過去に彼の地に旅立った友(師)が無性に思い出される。
あの時の想いが今日にまで引き継がれて生きてきたのか?の疑問にも突き当たる。
今一度、あの時の想いをここに転記すると同時に、新たな想いも私の終活の一つとして
記述してみたい。
(注記:彼の地に旅立った友人(師)の実名掲載の許諾は残された家族から頂戴していない
事、ここに記載することで容赦をお願いします。また、夭逝という言葉を今の時代に合わせ、
60歳前後も該当すると考えて記載しています。)

1. 藤原稔氏
 私と同期(昭和35年)に倉敷工業高校を卒業して東芝姫路工場に入社された友で、多感
な青春時代を共に過ごした記憶が蘇ってくる。
彼の告別式での弔辞を転記して、その時を想起している。
弔辞
藤原君、あなたが脇下の異常を私達に漏らして、一年にも満たぬ師走の最初の日、私達の
ところから彼の地に旅立ったのは誠に残念無念の極みです。
運命とはいえ、私達が受け入れるには長い月日が必要で、今もあなたは私達と共にこの浮世
にいる気がしてなりません。
藤原君、あなたは1960年(昭和35年)4月、東芝姫路工場に入社して以来、日本の
高度成長期を私達と共に歩んできました。浮き沈みもありましたが、約42年間は概して
素晴らしい会社生活であったと思います。藤原君、あなたは仕事で数多くの楽しい経験を
積んでいましたね。チェコのロズノフにもドイツのベルリンにも、そしてタイのバンコク
でも長期滞在して業務を誠心誠意遂行しましたね。寝食を忘れて仕事に没頭することも
多分にありましたね。
2001年に東芝退職後、2002年10月、私と一緒に僅か半月でしたが、バルト三国
の一つの国、リトアニアに、工業的物作りの最後の仕事に出掛けたのが、昨日のように
思い出されます。ほろ苦かった青春時代も走馬灯のように浮んでは消え、消えては浮んで
まいります。
この世の無常は私達の年代になれば覚悟の事とはいえ、あなたの今日のありようは、余り
にもの夭逝は誠に無念です。しかしこの祭壇のあなたの笑顔を見ていると、”馬鹿、お前は
何を言っているのか”と、今日を受け入れるのをあなたは私達に求めているような気がして
なりません。藤原君、あなたの安らかな旅路を衷心よりお祈り致します。
(2009年(平成21年)12月2日 東芝姫路工場友人代表 北原次男)

彼の死後15年の年月が流れたが、私の心からは過去の諸々の彼との出来事が蘇って、
彼の姿が色褪せる事はない。(挿入写真:リトアニア2002年、青春時代 1962年)
 

2. 定兼忠義氏、中西 豊氏
 定兼氏、中西氏は私と同期(昭和35年4月)に東芝姫路工場に入社した友である。
定兼氏は倉敷工業高校、中西氏は鳥取工業高校を卒業された。定兼氏は製造技術部門、
中西氏は機械設計部門の職務を遂行された。
 二人との仕事上での付き合いは、カラーブラウン管の海外プラント(チェコ、ドイツ、
タイ)からである。昭和53年(1978年)以降の事である。私との部門の違いで、行き
違いもあったが、最終目標(プラントのアクセプタンス)に向かって頑張った記憶が蘇って
いる。
 二人はともに60歳で定年退職をして、会社生活から解放された生活(定兼氏は趣味の
Walking、中西氏は農業)をエンジョイしていたが、定兼氏は平成26年(2014年11月)、
中西氏は令和4年(2022年)10月、彼の地に旅立った。定年退職以降、年2回の懇親会や
Walkingを同期生で開催していた。開催記録としての写真をHomepageに掲載していたが、
5月でサイトのサービスが終了する。そのためパソコン内の写真編集作業を行いながら、
二人との過去を懐かしく思い出している。
(挿入写真:1989年12月16日-チェコスロバキアのビロード革命の前日-、
ヴァ―ツラフ広場にて両君と、2005年タイランドで定兼君と)
 

3. 松岡 隆氏
  津山市立中道小学校の級友である松岡氏も私の記憶の遡上に浮かんでくる。
父が戦死という同じ境遇が私と松岡氏を強く結びつけたのであろう。
彼は中学校卒業後、神戸の白洋舎というクリーニング店で働いていた。過労の所為か
腎臓を病んで津山の病院に入院していた時(17歳の頃か?)の事が思い出される。
寒い小雪のちらつく日であった。彼の病院の看護師(女性)に対する恋心に心が躍ったの
を鮮明に覚えている。初心な私は同年代の女性に話しかけることすら出来ない時であったか
ら。その後彼は、神戸電鉄の運転手として働き、結婚、神戸電鉄の駅長になり安息の時が
あったに違いないが、それも想像するに僅か、1994年8月、持病の腎臓病が悪化、53歳で
彼の地へ旅立ってしまった。私がアメリカの現地会社に赴任する前(1994年5月)には
電話口から彼の元気な声が聞かれたのに。
 幼少の頃からこの世の無常、無情は潜在意識の中にあったが、遠く日本から離れた地での
悲報は辛いものであった。(写真:1983年の中道小学校同窓会にて、
小学校の同級生と、集合写真 中列右から1番目が彼)
 

4. 矢野義弘氏
 太子町蓮常寺自治会の壮年会会員で、1986年頃から1990年頃まで蓮常寺ソフトボール
チームで私とバッテリーを組んだ矢野氏の悲報を聞いたのは、アメリカのHorseheadsと
いう町の春の息吹が僅かに感じられる、1996年3月10日(日本時間)であった。
同じ日に、私の二代目の犬(Happy 2世号)が突然死した。不慮の事故で無くなられた
矢野氏の死が遠い電話口の娘から伝えられたことで衝撃受け、その頃の自分には心の重荷
となったのを記憶している。彼は1941年(昭和16年)5月生まれであり、次の誕生日を
迎えれば55歳となる、早すぎる旅立ちであった。
 矢野氏は、1980年(昭和55年)素麺業を創業され、地場産業である播州素麺(揖保乃糸)
を製造されていた。壮年会の発足(1988年)や盆踊りの復活開催(同年8月)などに
尽力されたのを覚えている。矢野氏のご子息である、矢野雅慎氏が2016年(平成28年)
太子町蓮常寺に新工場(名称:太子製麺)を建設され操業を開始された。父親の遺志を
継いで力強く地場の味を継承されている姿をうれしく見守っている。時間的には短いと
思える矢野氏との縁(えにし)であったが、今の私にはかけがえのないものであった。
(写真は1990年2月、ある宴席での矢野氏-3人写真の左側、1988年盆踊り打ち上げ式
の集合写真-右から3番目)
 

5.丸尾幸二郎氏
 東芝姫路工場ラグビー部の隆盛期を担ってくれた丸尾氏が、寒気の中の2004年12月
31日、彼の地に旅立っていった。彼が旅立ってから20年にもなるが、未だ彼の豪快な
笑い声が聞こえてくる。葬送の言葉として記述したことが私に実践出来たであろうか?
友よ、さらば(丸尾幸二郎君を送る)
2004年の年の瀬、東芝姫路ラグビー部で青春時代を共に過ごした朋友の丸尾幸二郎君が
膵臓ガンで彼の地へ旅立ってしまった。
今期の初雪を記録した翌日の31日の寒気の中、幸二郎君本人にとっても、ご家族の皆様
にとっても、そして我々友人にとっても厳しい、悲壮な旅立ちがあった。
膵臓ガンが発見された時点では、既に他の臓器への浸潤や移転があり、冷厳な現代医学の
限界を超える奇跡を期待していたが、抗癌剤(ジェミナ―ル)の投与以外の方法は無く、日々
に体力を消耗し異常に気づいてから6ヶ月で無情にも天命を終えることとなってしまった。

幸二郎君は昭和24年(1949年)2月7日生まれで、享年57歳、あまりにもの夭逝が無念で
ならない。天の授かる人の運命とはいえ、あがなえぬ人の宿命とはいえ、天の無慈悲を憤る
心を抑えることが出来ないでいる。
しかし天命は天命、残された者たちが幸二郎君の分までを真摯に生きることで天に報いる
ことを、本人の望むところとしなければならない。今は彼の地での平安を祈り、香を焚かね
ばなるまい。
幸二郎君、君は東芝姫路ラグビー部の全盛時代の担い手であった、有山孝美君
(1992年2月、逝去)のところに行くのです。決して一人ではありません。
あの時代と同じように素晴らしいチーム作りに、君の情熱を傾けて下さい。楽しいラグビー
が出来る場をつくって、君自身も楽しんで下さい。いつかは我々も仲間になります。
そしてあの時代のようにラグビーを愛しましょう。君の浮世はノーサイドとなりましたが、
新しいキックオフが始まるのです。
青春時代の思い出はもう小生の記憶の彼方で断片的であり明確ではありません。幸二郎君
のアルバム集で思いを巡らすだけです。貴君の悪友とともに、時折々にそれを眺めながら
回顧することにします。
君はガンとの闘いにも勇敢であったと思います。抗癌剤の投与で体の倦怠感は傍からも
明らかでしたが、決して痛いと訴えなかったと聞いています。それにガン告知を受け時点の
苦悩を隠して、我々には明るくカルテまでみせて余命を全力で生きる覚悟を、言葉では話さ
なかったが素振りでみせていました。
職場復帰もして、短期間(11月15日から約1ヶ月)であったが私達と行動を共にしまし
た。(幸二郎君は東芝を定年扱いで退職、太子町嘱託職員で建設課に勤務、同僚の東芝ラグ
ビー部員であった石田氏、シルバーセンターからの派遣である柴田氏や私と町の道路環境整
備のため働いていました。)
12月15日を最後に歩行もままならぬため、岡山医大に再入院された。
太子ジュニアーRSの事、誠君(幸二郎君の長男)の友人のホームページの事など最後まで
酸素吸入を受けながらも気丈に語っていたのに。
12月27日に、小生の携帯電話に彼の元気な声が二回も飛び込んできたのに。
幸二郎君、君は最後までガンと闘い勇敢でした。それはラグビースピリットそのものでした。

天命で先送りの順番を違えた君を責めるのではありませんが無念です。
この世の無常は幾度も経験した私ですが貴君の死は無念です。
今はひたすら祈ることで心を鎮めています。安らかに旅出して下さい。そして時折、我々に
警鐘を鳴らして下さい。“俺の分”まで生きているかと。南無阿弥陀仏。
                    (2005年1月3日 通夜式を前に記)
(追記) 幸二郎君の奥様(丸尾和子氏)も2008年11月28日ご逝去されました。心より
ご冥福を祈ります。(写真はOB戦-1992年と2003年太子ジュニアラグビースクールでの
小学生指導風景)
 

5. 有山孝美氏
 有山孝美氏は1969年(昭和44年)、宇部高専を卒業、東芝姫路工場に入社された。
在学中から始めていたラグビーも継続して、工場のラグビー部の隆盛期を築いてくれた。
実業団のオール兵庫のメンバーにも選ばれた秀逸のラガーであった。工場の金属部品課の
長にもなられ将来を嘱望されたのに、天は無情なるか、1992年2月、享年45歳で彼の地に
足早に駆けて行ってしまった。
 翌年、彼の墓参に、丸尾幸二郎氏と関東正治氏に誘われて北九州市を訪れた。その時の
私の想い記録する。
「60才を過ぎた有山のご両親の悲しみを痛く感じる。私自身、墓石を雑巾で拭くこと
などかつて、私の父母のものもやったことが無かったが、友がするままに見習った。
熱い涙を堪えるため、黙々とその作業を続けた。常に思う事は、世の中には順番がある
ことである。決して運命とはいえ、先送りの順序を違えてはならない。
「年々、歳々、花相似たり、歳々、年々、人同じからず」とはいえ、人の世の無常は哀しい。
功なり名声を成しても、愛する子を失いしものには、満たされぬ空白がある。満たされぬ心
を癒すために、過去を振り返り、追憶することも必要であろう。そのことが辛いことを思い
起こさせる事にもなるが、親であればそれが風化するまでしのぶことが許されよう。
若者にとって過去の辛い思いを捨て去ることは、少しは容易であり、その事が次の飛躍の
ために必要であろうが、年月を重ねたる者にはなかなか出来ぬ。
思いを新たにすることになるだろうが、昨年発行した有山追悼ラグビー創部31周年
アルバムを4月になって郵送した。彼のお母さんはOB戦の頃(1993年5月)、姫路に
行きたいと話されていたので、電話で案内したが風邪をこじらせて実現出来なかった。
彼の父からOB戦に寄せて頂いたご厚志に対する私の礼状に対し、彼の父からは律義にも
手紙で近況の返事を頂いた。去りし子に対する思いを文面に滲ませて。ご健康で子の成し
得なかった長寿を祈念する。
私は父母、兄、姉の年齢を越えることを一つの目標として生きてきた。過去の家族のそれ
ぞれの年齢はもうとっくに越したが、彼の地に去りし者の無念さを生きるに足る年齢は
まだ遥に遠い未来である。それまで私は去りし者の意思で生きねばならず、少なくとも
そこまでは私の子供たちに順序を違える事の無いよう祈念している。私は有山の父親のよう
に強くはない。」1993年5月 記) (写真は有山氏の勇姿-1982年と墓参の風景)
 
6. 九嶋博士(はくお)氏
 1962年(昭和37年)?東芝姫路工場に入社、約42年間、白黒&カラーブラウン管
製造部門での勤務に尽力され、2004年(平成16年)10月、定年退職された。
第一世代の工場ラグビー部のキャプテンとして、次の世代の隆盛期を迎える基礎を築いて
くれた。定年後は被災地のボランティア活動に尽力され、多くの被災地を訪問されている。 
彼の力強い支援力に触発されて2011年9月、彼の指導の下、私も東北地震の被災地
(陸前高田方面)へのグループボランティア活動を経験した。神戸からバスでの往復日程も
含め4日間の短い活動であったが、被災地の実情を肌に感じることが出来た。また、この
経験を活かして2016年5月末、熊本地震のボランティア活動に個人で参加、被災地の過酷
な状況を目に刻んだ。
九嶋氏はマスター陸上競技(800m)やホノルルマラソンにも挑戦した体力に秀でた人物であった。
その彼も2022年10月、病(肺癌)に倒れ彼の地に満年齢78歳で旅立った。
東北地震ボランティア活動の時、彼から貰い受けた寝袋が彼からの遺品として残っている。
新婚時代、彼と同じ長屋社宅の隣合わせであったことも思い出される。
(写真:ユニホーム姿-2008年と東北ボランティアでの集合写真―最後列中央)
 
7.小笠原正博氏、柳田 寧(やすし)氏、室井幸三(ゆきみつ)氏
 三氏共に東芝姫路工場ラグビー部の後輩である。順番を違えた彼の地への旅立ちをして
しまったと無念である。もう少し長生きをしてもらいたかった。
 小笠原正博氏は、工場の半導体部門の技術者であった。1976年に宮崎工業高校を卒業、
東芝小向工場に入社、1981年に姫路工場に転勤、ラグビー部に入部した。
 2002年に発足した太子町ジュニアラグビースクールの指導者として尽力され、特に
タグラグビーでは、近畿地区大会出場の常連校に成長させてくれた。その彼も血液の病に
侵され、2018年5月、満年齢58歳で帰らぬ人となってしまった。

柳田 寧氏は工業高校卒業後、東芝のトランジスター工場に就職、1970年東芝姫路工場
の半導体製造技術部門に転勤、間もなく工場ラグビー部に入部された。2004年に定年退職
された。高校時代は柔道部で(柔道二段)活躍された頑強な肉体の持ち主でした。
その彼も2017年8月、彼の地へ満年齢70歳で旅立ってしまった。

室井幸三氏は技能訓練生として、東芝姫路工場に入社し機械作りのエキスパートとして
活躍された。2002年9月に定年退職されその後の平穏な時も10年と短く、2012年12月、
満69歳で他界された。工場ラグビー部の現役に在籍した期間は短かったが、黎明期の
ラグビー部を支えてくれた。
(写真:小笠原:-タグ&ミニラグビーの生徒達と-2008年、2012年
    柳田氏:2006年OB戦、2004年 九嶋氏、玉田氏と 
    室井氏:創部25周年(1986年)のユニホーム姿、2002年九嶋氏と)
 
   
8. 山本雅則氏
先輩は技能訓練生の第一期生として、東芝姫路工場に入社、機械組み立ての道を一筋に
邁進された職人気質の人でした。2000年に定年退職されてから10年足らずの2009年
12月、彼の地に旅立たれた。満70歳の旅立ちであった。
 先輩は1961年(昭和36年)東芝姫路工場ラグビー部創部当時からの強力なNo.7で
した(当時のフォア―ドは7人制)。公式戦の初戦での、みぞれが風に舞う中の激闘が思い
出される。先輩はラグビーに於いても職人でした。
(写真:ラインアウト-1962年、集合写真-1965年、後列右から二番目が山本氏)
 
9.垣内博文氏
 垣内氏は私のカラーブラウン管製造分野での後半生の所属上司であり、その後に直属
を離れてからも間接的な指導を受けた先輩である。
1957年(昭和32年)工業高校卒業後、東芝姫路工場に入社された。1998年に定年退職
された。カラーブラウン管製造分野、特に生産技術や工場経営のエキスパートであった。
無念にも2003年1月、65歳で彼の地に旅立たれた。垣内氏の訃報を電話口から聞い
た時の想いの記録をここに転記する。
「垣内博文先輩を送る」
今冬の最低気温の朝、東芝の先輩、垣内さんの訃報をきいた。電話の先にふさわしい言葉
も見つからない。御夫婦でのタイ旅行から帰ったその日の突然の事に驚愕している。
二週間前にドリームクラブの炭焼き小屋で逢って、次ぎの語らいの機会を約束したばかりな
のに。脳溢血での突然死は悲痛である。平成の長寿時代であれば夭逝と言えるのではないだ
ろうか。昭和32年に東芝に入社以来、日本経済の復興、隆盛期を多感に生きた東芝人が、
この世を足早に駆け抜けて行った。貴兄が築いた数々の東芝での業績が思い出される。
貴兄から私が教えられたことも数知れない。貴兄が指導された1980年初期の小型管一貫
生産の自動化ライン、後半以降の大型管の自動化ライン、これで日本経済新聞の先端FA賞
も戴いた。今や世界市場を動かす程に成長した中国のCRTプラントの推進、そして1991年
以降に社長で赴任されたタイ、インドネシアのCRT工場の経営など枚挙に暇が無い。
東芝のCRT工場に生産技術課を創設したのも貴兄であったと記憶している。高度な
物造りの牽引車として、過去の時代を怒涛のように生きた様が思い出される。この世の無常
なのは百も承知している。しかし夭逝は余りにも残念でならない。これからもう少し貴兄との
穏やかな時間を、会社組織の呪縛のない自由人としての共通な時間を持ちたかった。
定年後から本格的に始められたという油絵においても、貴兄は私には無い才能を発揮され
ていた。私のホームページのタイ風景写真集にもアユタヤの油絵風景を寄せて戴いた。
貴兄は文筆にもたけていた。タイの赴任地で私は貴兄のヨーロッパ旅行記も読ませて戴いた。
時代の語部としての貴兄から後継すべきことが、未だ多分にあったのに残念でなりません。
寒風が終日吹きすさび、雪も舞った今日の天気は、貴兄の死を悼む人々の慟哭の固まりが
為せるものではないでしょうか。天が人の死を掌るとはいえ、その天もおのれの無慈悲を
慟哭しているのではないでしょうか。
貴兄と時代をほぼ同じく生きた私には、貴兄のあり様が一つの目標でした。共に目標に
向かって敢然と立ち向かったものでした。目標を達成した喜びを共有させて戴いた事も多く
ありました。今日、貴兄という明日の日に向かう目標が突然に消滅するなんて、万一にも
思わない事でした。貴兄の死を乗り越えて私達の時代を天命の限り生きるのが、時代を共有
した者の務めであろうと思いながらも、未来への不安がどうしょうも無く押し寄せてきます。
貴兄の死の衝撃は私への警鐘ともなっています。貴兄の死をなかなか受け入れられません。
しかし貴兄はそれを受け入れる事を私に諭すでしょう。そして貴兄の年齢を超えて生きる事
も諭すでしょう。より強い生き様を私が固有してゆくまで、貴兄はあの時代のように私に
強く接してくれるでしょう。
安らかな彼の国への旅立ちを祈ります。貴兄のように多感に生きてみます。
さようなら。南無阿弥陀仏。(2003年1月29日 記)
(写真:1981年 姫路まつり―東芝姫路工場まつり、タイ工場(TDDT)社長退任時-1996年)
 
10. Mr. Jiri Hradil
チェコスロバキア、Tesla Roznov工場とのカラーブラウン管プラント輸出事業の
契約が発効されたため、私は1978年10月から2か月足らず、現地の設備関連のconsulting
業務を命じられた。彼は平凡で特別な技能も技術も無い私を丁寧に迎えてくれた相手先
技術者の一人であった。真空技術を主に扱う製造技術者であった。
チェコスロバキアのビロード革命(1989年)以降の国営企業の解体に伴い、彼はTesla社
を離れ、設備製造関係の会社(Themis)を設立した。それ以降社長を兼任しながら営業職
として、1997年私の赴任先(TDD)であるHorseheads(NY州)を訪れた。それ以降私と
のBusinessと同時に私との私的人間関係を深耕する機会が増えた。アメリカで設備製作
する事より安くつくと考え、Themis社に設備発注を提案したのも、心の片隅には1978年
以降の長い付き合いがあったからであろう。当時の製作費で60万ドルくらいであった。
 同様にタイに赴任した時は、タイの現地会社(TDDT)の設備の発注も、私の職務範囲を
越えたものであるが、アメリカの場合と同じ額程度を設備担当部門にお願いした。
 2013年の私的旅行で後輩である鈴木裕志氏と共に、彼や過去のTesla社技術者を晩餐会
に招待し、時の流れを感動を伴って回顧しながら過ごしたのを想起している。
2005年に脳梗塞に倒れたが、果敢に戦って見事に回復した彼の姿を思い出している。 
政治的には波乱に満ちた彼の人生も、2018年のクリスマスカードを最後に、メールでの
連絡も2021年に途絶え、2022年、82歳で彼の地に旅立った。私の仕事での成長に影響を
与えてくれたかけがえのない人物で、技術者としての物の見方を定性的なものから定量的な
ものに変えてくれたチェコの技術者の一人であった。 
(写真:2017年の家族写真、彼の家)
 
11. Mr.Jaroslav Zingor
  1978年10月、チェコのCRTプラントのconsulting業務に出向いた時、私的時間を
暖かく持成してくれた友人の一人である。釣りが好きで(私もそうだったが)カプラ
(チェコ語、鯉のこと)釣りに同行したのが最初であった。家にも招待してくれた優しい
友(先輩)であった。1995年頃から心臓病に悩まされていた彼は、2007年にアルツハイマ
ー病で75歳の奥さんを亡くされた。一人暮らしでも、神の意志が下るまで勇気を持って
共に生きようという私との相互の想いを最後まで持ち続けてくれた。2015年4月に最後の
さよならを意味する(In conclusion of my letter, I am using the same words as your
last letter: Please live as long as you can, with love and brave. It is my last letter with
many greetings to you---) 手紙を受け取った。そして2020年6月、89歳で彼の地への
旅立ちとなった。さらば、我が友よ。
(写真:2015年に手紙に同封してくれたもの、ヨーロッパ旅行時(2001年)、彼の庭先
で私の妻とJaroslav 夫妻)
 
12. Miss. Olga Machalkova,
 彼女とは2014年以降、私がXmasカード交換を中止してからは、年1回の交流が途絶え
ている。1981年、1984年のチェコプラントのconsulting業務の時の相手先通約で、仕事以外
でもお世話になった。特にオストラバという都市のラグビークラブ(Ostrava Locomotive)
を1981年に紹介して貰った。お陰でそこでの試合も経験出来たし、クラブチームのプレー
イングマネジャーとも懇意となり、その時以来2022年までXmasカードの交換や現地での
私的会合を4回(2013年が最後)も持つことも出来た。また、チェコ語での詩作にも彼女に
協力してもらったし、日本人派遣者のグループ旅行の案内もしてもらった。
 私的な繋がりはチェコでの私の生活を豊かにしてくれたと深く感謝している。
今年になって、彼女へ、2013年に現地開催した晩餐会への招待状の誤りを含めた音信
不通とした理由を書いた手紙を送った。年齢的に80歳手前であり、生死不明であるが
現在の想いを伝えている。ここでは未だ彼女にさよならとは言わない。
(写真:Luhacoviceにて-1984年、Europe 旅行時の晩餐会-2001年)
  
13.補足(Letters and E-mail)
  三人のチェコ友人との交流の記録がパソコンに残っていた。つれづれの想いがあった
かつての時が想起される。
 1)To: Miss. Mchalkova(2007年)
Dear Miss Machalkova,
I send my heartily sympathy to you and your family about the death of your beloved
mother aged 87 years old. Is there any previous notice about the death of your mother?
It comes in any time and suddenly and also inevitably during our life.
Time flies so rapidly. We are getting old year by year. And we’ll lose more neighbors than
when we were young.
I had sad news in beginning of last year, 2006 like as on this moment.
Mr. Zingor’s wife (aged 75 years old) died come from accident of Alzheimer'
disease origination. And early this year I lost my uncle aged 82 years old due to the
emphysema of the lung.
I send my deepest condolences to you again and I pray for the peaceful sleep on
your mother.
Miss Machalkova, as for life, we have to live young in heart as we were. I always
remember our beautiful days in Roznov when I had contact with people of Roznov.
Beginning of this year I had greetings from Mr. Hradil, Mr. Kovar and Mr. Zingor,
and also, Mr. Jantac from USA. I am writing an itinerary” My Journey” on my home page.
If you have a chance to access my home page (http//www9.plala.or.jp/tjrs/), you will surely
remember my thought about your homeland and people of Czech.
Would you mind, please allow me to send small money for offering flowers to your mother.
It is a Japanese custom since old days and it is my condolences as a form. Anyway, I think
you are living alone for normal days like as Mr. Zingor. Would you please take care of
yourself and have healthy days through the year of 2007.
Please touch with me in anytime.
Sincerely yours. T. Kitahara   22nd of Jan. 2007

(From Mr.Hradil 2006年)
Dear Kitahara san
Thanks a lot for your wonderful calendars and also for your nice letter.
The story of vacuum picture tubes ended together with our retirement.
New SED tubes will be done by a new generation of guys. Let us wish to these people
that they will spend their whole long life with this tube as we did.
Unfortunately, I do not have the contact to Chaiyos. If you have the chance to meet him
in Bangkok, please tell him he should send a short mail message to my mail address.
I wish to say hello to him. During my last stay in Thailand, We were together in
Ayutthaya and have seen the Buddhist shrines there.
It was an exceptional- experience for me.
Here in Roznov some people decided to write a book about history of Tesla -about the
production electronic valves, semiconductors and pictures tubes. I will be responsible for
the part of picture tubes produced between 1949 (black/white) and 2000 (colure).
It is a nice job for the long winter evenings.
Please let me have the picture of your garden. I have a very nice book about Japanese
gardens. There is also the garden KO EN from Himeji.
I have a Japanese corner in my garden, too, even with a Japanese lantern.
Next spring I will send you a photo because now in winter the garden is not so nice.
I wish your health should be perfect one because this will positively affect your autumn
of life.
Your friend from the other side of Earth.
(To Mr.Zingor 2011年)
Dear Mr. Zingor
I am very pleased to have your heartfelt message about the Earthquake and Tsunami
attacked to north-east Japan. I and my family had no damage but we had severe
damage in heart. But we are OK with warm message not only from you but also friends
in USA and in the world. There are still many missing peoples and lack of life-line.
The tsunami, it was an unexpected scale in the history of Japan. And also troubles of
atomic power station gave us anxiety and severe damages on agriculture.
It will take a long time for the rehabilitation of the disaster-stricken area. But I believe
that we can do it in the shortest way to concentrate our power and wisdom.
I will take my part on this matter.
How is your single life? I am very happy to have your photo taken in 2010 at bus trip
with your girlfriend. Anyway, please enjoy your remained life.
I am remembering the nice days in Roznov – the beautiful part of my life.
Sincerely yours,  T.Kitahara  April 3rd, 2011

私を成長させてくれた“さらば 我が友(師)”になる人は、記事にした16名以外にも多数
彼の地におられる。ブログ起稿過程で16名以外の多く友や師が脳裏を去来した.
しかし、今回はこれで脱稿したくご容赦を願うことします。お許し下さい。
(脱稿:2025年1月5日)