今朝は小林正観さんの著書よりご紹介します。
職場の同僚と食事やお茶を飲んでいたと仮定しましょう。
そのときにこんな話をしたらどうなるでしょうか。
「自分はついていない。自分は不運である。なかかいい人にも出会わない。ろくな人に出会わない。結婚運も悪かったし、子供運も悪かった。会社運も悪いし、上司との運も悪い。友人にも恵まれていないし。本当にこんなひどい人生ってあるものか。どうして俺はこんなについてないんだろう」
それを聞いていた友人は、「そのついていない人生の一部を自分も担っている。そんなふうにこの人には思われているんだ」と認識することになります。
そんな人と話をしていても、どんどん体の元気がなくなるだけです。
自分の愚痴や泣き言を言っているだけのようですが、実は心ある友人たちをどんどん遠ざけていることにほかならないのです。
逆にこんなことを言う人がいたとしましょう。
「自分はものすごくツイてきていた。今までツキまくっていた。幸運である。ラッキーである。ずっと人生が幸運で生きてこられたように思う。自分ほどツイていて、ラッキーな人間はいないと思う」
また、このような話をする人がいたとします。
「結婚運も良かった。子供運も良かった。会社の上司にも恵まれ、先輩にも恵まれ、後輩にも恵まれ、同僚にも恵まれた。やることなすことが全部ツキまくっていて、本当に自分ほど幸せでラッキーな人間はいない」
その言葉を聞いた同僚は、「自分もそのラッキーな中の一部だ」というふうに受け止めます。
間接的に「お陰さまで」というニュアンスが感じられるので、この人と一緒に食事をしたり、お茶を飲むことが元気を与えてくれます。
「あなたと一緒にいる時間も幸運でラッキーな時間なのですよ」と言っているようなものですから、その言葉を聞いた人間はどんどん元気になります。
「自分はラッキーだった。幸運だった、幸せだった」と言えた人というのは、心の中に明るいものを持っています。
別の言葉でいうと「感謝の心がある」ということにほかなりません。
「自分の力で生きてきたんだ。自分の能力で生きてきたんだ。自分の努力で生きてこられたんだ」と言っている人に、神はあまり良い顔をしないのかもしれません。
「自分はラッキーだった。ツイていた。幸運であった」という認識を持っている人は、一言でいうと「謙虚な人」なのかもしれません。
「運命好転12条」
小林正観さん
五月書房より。
あなたにすべての善きことが雪崩のごとく起きます
