人差し指切断事件 後編
※ このブログにはグロテスクな表現が含まれています。
※ この記事は後編ですので、前編・中編をまだ見ていない方はそちらからご覧ください。
指を切断して、復帰を早めると決断した僕は、反対する両親を説得しました。
最後は親が折れた形で、「自分の人生だから」と認めてくれました。
しかし、そのことを耳にした名電高校のバレー部監督・加藤先生が許してくれませんでした。
「指を切ることは認めない。
指を切ってまでして復帰を早めても、俺はお前を試合で使わないぞ。
しっかり治して体育館に戻って来い。」
今思えば、あの時の僕は目先の試合だけしか見ていなかったのかもしれません。
そこら辺を加藤先生は冷静に見ていたんですね。
やはり、指があるのと無いのとでは全然違いますから。
今でもあの加藤先生の言葉に感謝しています。
そこからは、指を残す方向で復帰を目指しました。
お腹の肉を指に移植し、人差し指がチュッパチャップスみたいになったこともありましたね。
そこから形成手術も数回して、何とか指の形になりました。
医者の協力もあって、思ったより早く復帰が見えてきていました。
最後の手術が終わり、後は抜糸をすれば復帰という頃。
僕は相当焦っていました。
春高バレー愛知県予選にはなんとか間に合いそうなめどが立ったものの、どうしてもバレーがしたかったのです。
なので僕は、監督に嘘をついて、まだ抜糸もしてない指で合宿に参加してしまいました。
3ヶ月ぶりくらいのバレーだったのですが、あまりブランクも感じずプレーができました。
しかし・・・
セットを重ねるにつれてテーピングがみるみるうちに血で真っ赤になってきました。
やはり、抜糸もできていないのにバレーをするなんて無理があったのです。
「やばい。このままだと監督にばれてまたバレーができなくなる。」
そう思った僕は、女子マネージャーからナプキンをもらい、
はさみで切って指に巻き、テーピングで固めてまた練習ゲームに出場しました。
ナプキンは衛生的だし血は良く吸い取るし、我ながらナイスアイデアだと思ってバンバンスパイクを打っていたのですが・・・。
やはりはさみで切ったところから血が漏れ始め、床にポタポタ落ち始めた頃に監督にばれてしまいました。
ちなみに、
「そんなに血が出ているのに痛くないの?」
と、思ったかもしれませんが、指先の神経は切れてしまっていて、まったく感覚がありませんでした。
その時は、指先を触られてもわからないくらいでしたからね。
でも神経が切れてるって怖いものです。
監督にばれて、ナプキンをはずしてみたらビックリ。
もうパックリ割れてました・・・。
大至急、救急病院行きでしたね。
そんなこんなもあり、指はしっかりくっついて、試合に間に合うことができたのでした。
この事件からですかね。
バレーに対する執着心が強くでてきたのは。
そして、
「どんなことがあっても自分は乗り越えられる」
と思えるようになりました。
だって、こんなことを乗り越えてきたんだもん^^。
以上が、人差し指切断事件の真相でした。
どうでしたか?
ちょっとグロテスクすぎて気分を害してしまった人はすいませんでした。
今も僕の指はしっかりありますよ。
第一関節は一生曲がりませんが、爪も伸びますし、だいぶ神経も伸びてきました。
感覚も復活してきましたよ。
他にもグロテスクな話を聞きたい方は、
「小指脱臼して骨が飛び出す事件」
をご用意していますので、なんなりと^^。
この
「バレー選手がボーリングで指を切断した」
という話は、当時、全国に広まりました。
一時期、高校バレー界ではボーリング禁止令が出たほどでした(事実)
大学に進学した後に、関東の子から
「あれ北川のことだったの!?」
と、何人かに言われましたからね^^。
指を切断した時、まわりの友人は「北川のバレー人生は終わった」と思ったそうです。
でも僕は、指を切断してもバレーをやめるとはこれっぽっちも思いませんでした。
だって、バレーが大好きだからね。