第一章 目覚めた気持ち

 

日下部大我三十歳、最上総合病院の内科医である。

 

物腰が柔らかく、怒った顔は見たことがないほど優しい男性である。

 

笑顔が素敵で予約が取れないほど人気がある天才的ドクターだ。

 

俺はこの歳まで恋愛経験はあるものの、結婚までたどり着けない。

 

恋愛に対して消極的な性格だ。

 

俺の実家は日下部総合病院だが、親父の後を継ぐ気持ちはない。

 

俺には五つ年上の兄がいる、その兄が親父の後を継ぐことになっているからだ。

 

大学医学部の同期である最上丈一郎とは気が合う仲間だ。

 

「最上総合病院へこいよ、俺は外科医、お前は内科医、ニ本柱でこの病院を盛り立てて行こうぜ」

 

そんな最上の言葉に乗っかって最上総合病院勤務が決まった。

 

親父はうるさい位に結婚を急かしてくる。

 

「お前も三十になったのだから、結婚して落ち着け」

 

「親父、結婚は一人じゃ出来ないんだよ」

 

「そんなことは分かっている、見合いしろ」

 

と言うわけで、抵抗も虚しく俺は見合いをセッティングさせられた。

 

全く面倒だな、仕方なく会ってすぐに断ればいいかと思い、見合い場所へ足を運んだ。

 

相手のお嬢さんは二十歳、嘘だろ、どう言うつもりなのか、理解不能だ。

 

でも断る理由に年の差は好都合だった。

「後は二人で話をしてみなさい」

 

「そうですね」

 

相手のお嬢さんは松本真由香、松本ホールディングスのご令嬢だ、付き添ってきたのは叔母とのことだった。

 

「あのう、日下部さんはお医者様なんですって」

 

「そうです、最上総合病院の内科医をしています」

 

「最上総合病院、日下部総合病院の間違いではないのですか」

 

「日下部総合病院は兄が継ぐことになっているので、医学部同期の最上の病院で勤務させて頂いています」

 

「そうなんですか」

 

と、この先話が続かない。沈黙が流れる中、彼女が口を開いた。

 

「日下部さん、私、好きな彼がいるんです」

 

「えっ」

 

「驚きますよね、だって叔母が無理矢理見合い話を持ってきたんですもの」

 

「そうなんですか」

 

「このお話日下部さんから断ってください」

 

「分かりました」

どうせ俺も断ろうと思っていたから、ちょうど良かったと安堵した。

 

彼女は俺のスマホの連絡先交換を申し出てきた。

 

「日下部さん、もし具合悪くなったら診察してください、いいですか」

 

「もちろんです」

 

「それじゃあ、スマホの連絡先交換しましょう」

 

「はい?」

 

「直接、連絡してもいいでしょ、その方が早いし、ね」

 

俺は呆気に取られて何も言えないまま、連絡先交換に応じた。

 

「では、大我先生、断りの連絡忘れないでね」

 

「はい、承知しました」

 

俺は真由香さんがバッグにつけているキーホルダーが目に止まった。

 

「そのキーホルダー可愛いですね」

 

「あ、これ?彼とお揃いなの」

 

「そうなんですか、いいですね、仲よくて」

 

「先生、彼女いないの?」

 

「はい、いつも振られてばかりです」

 

「そうなんだ、私は大我先生が好きよ」

 

俺は不意打ちに若い女の子に好きと言われて恥ずかしくなって俯いてしまった。

 

「先生、可愛い、それじゃ、私、もう行くね」

 

「分かりました」

そしてマンションに戻り、親父に連絡を取った。

 

「どうだった、可愛い娘さんだっただろう」

 

「親父、何を考えているんだよ、真由香さんは二十歳じゃないか、俺とは十歳も年の差がある、いくら何でも無理だよ」

 

「そんなことはないだろう、愛に年の差は関係ない」

 

「それは燃え上がる二人ならそうかもしれないけど、見合いは無理だよ」

 

「それなら二十五から三十くらいで頼んでおくよ」

 

「しばらく見合いしてる暇はないから勘弁してくれ」

 

俺はスマホを切った。

 

それから平穏な日々が流れた。

 

そんなある日真由香さんが俺の診察を希望してきた。

 

「大我先生、お久しぶり、元気だった?」

 

「はい、真由香さんは彼とうまくいってますか」

 

「先生、私、振られちゃったの」

 

「えっ」

 

信じられなかった、真由香さんは明るく、その場を和ます雰囲気があり、年齢の割にしっかり自分の意見を持っている女性と言う印象だった。

 

真由香さんは電話口で急に泣き出し、最近睡眠不足だと訴えてきた。

 

「大丈夫ですか」

「駄目かも」

 

「神経内科をご紹介しますので、一度最上総合病院にいらして頂けますか」

 

「大我先生に診察してほしいの」

 

「すみません、神経内科は専門外なんです」

 

「ちょっとおしゃべりしてくれたら、気分が良くなるような気がするの、だから今日、先生のマンションへ行ってもいい?」

 

「俺のマンション?病院へきて頂きたいのですが……」

 

「先生のマンションには彼女がいるの?」

 

「いません、俺は付き合っている女性はいないですから」

 

「それなら決まりね、私のスマホに先生の住所送っておいてね、七時に行くからそれまで帰っていてね」

 

そしてスマホは切れた。

 

参ったな、ちょっと話聞いてやれば落ち着くだろう。

 

俺はそう鷹を括っていた。

 

急患が入り、病院を出たのが七時を回っていた。

 

俺は急いでマンションへ向かった。

 

十五分ほどで着く距離だったので、真由香さんに連絡しなかった。

 

駐車場に車を停めて、エントランスに向かった。

 

「真由香さん、すみません、遅くなってしまって」

そう声をかけると、真由香さんは俺の顔をじっと見つめて、俺に駆け寄ってきた。

 

そして、ぎゅっと抱きついてきた、咄嗟の出来事に俺は戸惑いを露わにしてしまった。

 

「あっ、あのう……真由香さん」

 

「先生にも振られたのかと思っちゃった」

 

「すみません、急患が入ってしまって……」

 

俺は結構背が高い方で、真由香さんは俺の胸くらいしかなくて、抱きつかれて、俺を見上げた時、彼女の上目遣いにドキっとしてしまった。

 

やばい、久しぶりの気持ちに戸惑っている俺がいた。

 

「先生、おしゃべりの相手してくれる?」

 

「はい」

 

「やだ、先生、可愛い」

 

「大人をからかわないでください」

 

「先生、そう言う時はチャンスってキスしなくちゃ」

 

俺は完全に真由香さんに振舞わされてしまっていることに気づいた。

 

「俺の事好きでもないのにそんな事言って、俺がその気になったらどうするんですか」

 

「いいよ、その気になって」

 

「本気で怒りますよ、彼を忘れようとその気もないのに、もっと自分を大切にしないと駄目です」

「先生、もう、真面目なんだから」

 

彼女はやっと俺から離れた。

 

嫌だったわけではない、これ以上抱きつかれてると、俺の理性が保たない。

 

やばい、真由香さんに惹かれ始めている自分がいた。

 

駄目だ、俺は首を横に振った、ありえない、彼に振られてちょっと頼られただけだ。

 

俺なんて彼女の中には存在していない。

 

彼女を抱きしめてキスをして、彼の事は忘れて俺にしろと言えたら、女性はキュンとするんだろうが、俺はそんな事は言えない。

 

「先生、先生の部屋に入れて、寒くなってきちゃった」

 

「すみません、どうぞ」

 

全く、妄想している場合じゃないだろう。

 

俺は真由香さんを部屋に迎え入れた。

 

「広い部屋、先生一人じゃ広すぎるでしょ、私が一緒に住んであげようか」

 

「それより、彼に振られたって、どう言う事ですか」

 

「うん、他に好きな子が出来たんだって」

 

「そうなんですか」

 

「やだな、先生が落ち込んでどうするの、先生は私を励さなくちゃ駄目でしょ」

 

「そうですね」

「先生、私お腹空いちゃったな、先生、夕飯はこれからでしょ、私も食べさせて、お願い」

 

「食欲あるなら、もう大丈夫ですね」

 

「なんか頭痛い」

 

「本当に、大丈夫?」

 

「先生、それじゃ、悪い女に騙されちゃうよ」

 

俺は二十歳の女の子に翻弄されっぱなしだった。

 

食事が終わって、久しぶりに楽しい時間を過ごしたと心がウキウキしていた。

 

このまま、返したくない、ずっと一緒にいたい、もう一人の俺が訴える。

 

二十歳の女の子の言葉を鵜呑みにしてどうするんだよ、彼女からしたらおじさんの年齢だ、冷静になれ、ちゃんと家まで送り届けろともう一人の俺が説教する。

 

そうだ、ちゃんと送り届けるんだ。

 

「真由香さん、家まで送ります」

 

さっきまで満面の笑みだった表情が曇ってきた。

 

「どうかしましたか」

 

「大我先生、私をずっとここにおいて」

 

「えっ」

 

びっくりしすぎて狼狽えた。

「叔母さんが無理矢理私を結婚させようとするの、先生から断りのお返事頂いて、そうしたらすぐに次のお見合いをセッティングされて、好きな人がいることを告げると、結婚の意思があるか確認したいって、会わせろって言われて、彼に叔母さんと会ってほしいと頼んだらそんな気持ちはない、面倒だから別れたいと言われて……」

 

「そうだったんですね」

 

「好きでもない男性と結婚するなんて無理だよ」

 

「確かにそれは出来ませんよね」

 

「お願い、私をここにおいて、大我先生」

 

真由香さんは両手を自分の顔の前で合わせて懇願した。

 

そして、俺と真由香さんの同居生活が始まった。

 

そんなある日、最上が俺のマンションにくると言い出した。

 

「大我、今日お前のマンションに泊めてくれないか」

 

最上の突然の申し出に俺は慌てて断った。

 

「無理、無理」

 

「なんだよ、怪しいな」

 

「別に怪しくなんかないよ」

 

「そうか、じゃあまた今度な」

 

「ああ、悪いな」