第八章 梨花は俺の妻だ
私は倒れそうになったところを純一さんが助けてくれた。
「危ない、大丈夫?」
「すみません、お腹が空いて」
「じゃあ、まず、なんか食べようか」
彼はクスクス笑いながら私を抱えて「すぐそこに車停めてあるから、頑張れる?」と、
声をかけた。
「はい」
見ず知らずの男性の車に乗るなんて、本当は避けたいところだが、今の私には助けてもらう選択肢しかなかった。
彼は「ちょっと待っててね」と私に声をかけて車から降りた。
しばらくして、コンビニの袋を下げて戻ってきた。
「おにぎりとサンドイッチどっちがいい」
「おにぎりを頂きます」
私はおにぎりにかぶりついた。
勢いよく頬張ったため、むせてしまった。
「はい、お茶もどうぞ」
私はペットボトルのお茶を喉に流し込んだ。
「死ぬかと思った」
彼は声高らかに笑い出した。
「ごめん、ごめん、おもしろいね」
「別におもしろくなんかありません」
「自己紹介まだだったよね、僕は三葉純一、君の名前は?」
「私は鶴巻梨花です、助けて頂いてありがとうございます」
「どういたしまして」
「あのう、今持ち合わせてがなくて……」
「ああ、いいよ、奢ってあげる」
「でも……」
「それじゃあ、今度、僕が困った時助けてくれる?」
「三葉さん、困ることなんかあるんですか、失礼ですけど、お金いっぱい持っているように見えますけど」
彼は自分が三葉ホテル御曹司だと言うことで、騙されることが多く、いつも自分の身分を偽って生活していた。
「ああ、車も洋服も友達からの借り物なんだ」
「そうなんですか、お金持ちはなんか冷たい感じで、それに住む世界が違うから、私はあまり好きじゃなくて……」
「そうなんだ」
「私でよければ、おにぎりのお礼させてください」
「良かった、じゃあ、連絡先交換してくれる?」
「はい」
こうして私と純一さんの付き合いは始まった。
手を繋ぐのに一年かかり、それから二人の仲は進展がなかった。
ある日、純一さんからプロポーズされた。
「梨花さん、僕と結婚してください」
「結婚」
この時、純一さんと一年以上お付き合いをしていたが、純一さんの住んでいる部屋に、一度も行ったことがなく、仕事も何をしているのか教えてもらえなかった。
「純一さん、純一さんと結婚はとても嬉しいんですが、私は純一さんのことを全くと言っていいほど知りません、どんなところで生活しているのか、なんのお仕事をしているのか教えて頂けないと、プロポーズの返事は出来ません」
純一さんは、しばらく考えて、言葉を発した。
「僕は三葉ホテルの副社長をしている、親父が海外にもホテルを持っており、将来は三葉ホテルの社長を継ぐことが決まっているんだ、都内のタワーマンションに住んでいる」
「なんで黙っていたんですか」
「だって、梨花さんはお金持ちが嫌いだと言っていたから言えなかった」
「私を騙すつもりだったんですか」
「騙すだなんて、ただ言い出せなかっただけなんだ、梨花さんに振られるのが怖かった」
純一さんは私を説得しようと必死だった。
はじめに言って欲しかった。
でも、はじめに言われたら、何かが変わっていただろうか。
私は純一さんのもとを去った。
あれから八年の歳月が流れたある日、私の目の前に純一さんが現れた。
「梨花さん、梨花さんだよね、やっと見つけた」
そう言ってニッコリ微笑んだ純一さんが立っていた。
「純一さん」
「ずっと探していたんだよ、なんで僕の側にいてくれなかったの」
「だって、純一さんは三葉ホテルの社長になる人だったから、もう社長さんになったんでしょう」
「うん、梨花さんと結婚したいと思ってあれからずっと探していたんだよ」
「私は……」
そこへ現れたのは最上さんだった。
「梨花、どうしたんだ」
「最上さん、今日は早いんですね」
「ああ、緊急オペもなかったし、急患もなかったからな」
最上さんは視線を純一さんに向けた。
「梨花に何か御用ですか」
「僕は三葉ホテル社長の三葉純一と申します、梨花さんのお兄様でしょうか」
「はあ?梨花は俺の妻だ」
純一さんは驚きの表情を見せた。
「梨花さんはもう人妻なのか」
「へえ、梨花を口説こうとしていたのか」
「僕達は八年前に結婚の約束をしていた、口説くとか下品な言葉は使わないでくれ」
八年前?こいつ、梨花に唯一プロポーズした男。
「八年前なんで梨花と結婚しなかったんだ、お前梨花を手放しておいて、今更のこのこ出てきてなんなんだよ」
「僕は梨花さんを手放したりしていない、梨花さんが僕の前から姿を消したんだ」
「なんだ、結局お前振られたんじゃないか、振られた奴は引っ込んでろ」
「最上さん、そんな言い方失礼ですよ」
「はあ?梨花がこいつを振ったんだろ?違うのか」
「振ったんじゃなく、身を引いたんです」
「身を引いた?結局諦めたってことだろ、本気で好きなら誰にも渡したくないって思うじゃねえのか、お前はこいつを本気で愛してたわけじゃないってことだろ」
「とにかく、梨花さんは僕が連れて帰りますから、梨花さん行きましょう」
そう言って純一さんは私の手を握り、車にエスコートした。
えっ、私はどうすればいいの?
その時、最上さんが私の腕を掴み引き寄せた。
「誰が梨花を連れて行っていいと言った」
「梨花さんは君を愛しているとは思えない、この結婚には裏があるんじゃないのか」
「へえ、鋭いな、教えてやるよ、梨花は俺の治療と手術を受けた、治療費と手術代、俺が梨花の面倒を見た生活費、引っくるめて五億借金あるんだよ、だからこいつは生涯をかけて、
俺の妻として俺の指示に従ってもらう契約を交わした」
「契約結婚ってことですか」
「そうだ」
「では、その五億の借金、僕が払います、ですから梨花さんと離婚してください」
「本気で言ってるのか」
「僕は本気です」
私は思わず口を挟んだ。
「ちょっと待ってください、五億って嘘ですよね」
「嘘じゃねえ、俺の手術はそう簡単に受けられない、俺の腕前は神の領域を超えてるからな」
「そう言うの自分で言います?」
「俺は天才だ、梨花は幸せ者だぞ、俺の手術を受けられたんだからな」
「梨花さん、僕のマンションへ行きましょう、五億の借金は僕が最上先生に払います」
「純一さん」
「おい、梨花、お前それでいいのか、自分の借金を人に払わせて」
いいわけないけど、私じゃ五億なんて払えないし……
悩んでいる様子を見抜いて、最上さんは私に近づき囁いた。
「俺の側に生涯いるなら借金払わなくていい、何度言わせるんだ」
私が答えに困っていると、最上さんは純一さんに言葉を発した。
「梨花は俺の妻だ、さっさと帰れ」
そう言って私の手を引き寄せその場から連れ出した。
「梨花さん、必ず迎えにきます」
私は後ろ髪を引かれる思いで純一さんの方を振り向いた。
最上さんは私の腰に手を回して「梨花、お前は俺の妻だ、他の男について行くことは許さない」と私を見つめた。
はじめてみる最上さんの真剣な眼差しに息をのんだ。
そしてマンションに向かった。
部屋に入ると、急に最上さんは私の唇を塞いだ。
いきなりキスされたのははじめてのことだ。
いつもは意地悪な言葉を言って、私がキスしてほしいみたいな感じで唇を塞ぐ、なのに今は最上さんが私を求めているように私の唇を奪った。
こんな最上さんを初めて見た。
彼の唇は私の首筋へと移って行った。
「最上さん、どうしたんですか」
「妻を抱くのに理由がいるのか」
「そうじゃなくて、いつもの最上さんと違うから、怒ってるんですか」
「お前が悪い」
「私がなんで悪いんですか」
この時、最上さんの私に対して独占欲が現れたことなど想像もつかなかった。
最上さんは、私を抱き抱えてベッドルームへ運んだ。
ベッドに身体が沈み、キスをされた。
激しい、まるで独占欲剥き出しのような、余裕のない最上さんの態度がちょっと怖かった。
最上さんの唇は私の胸を捉えた。
両手で形が変わるほど動かした。
そして首筋を強く吸われた。
「痛い」
そして最上さんは手をスカートの中に忍ばせた。
「最上さん、いや、怖い、やめて」
涙が溢れて止まらなかった。
俺はハアっと気づき我に返った。
目の前で震えて泣いている梨花を「ごめん」と言って抱きしめた。
梨花の身体を起こし、毛布をかけて、頬の涙を拭った。
「梨花、やつをまだ愛しているんだな」
「違います」
俺は思いもよらない梨花の言葉に戸惑った。
「確かに純一さんと結婚を望んでいましたが、嘘をつかれたのはかなりショックでした、それに三葉ホテル御曹司だったなんて、身分の違いに震えました」
梨花は言葉を続けた。
「その時、純一さんの側にはいられないと思ったんです、七年振りに再会して、ずっと私を探してくれていたなんて驚きましたし、それに五億の借金を払うなんて信じられませんでした」
俺は黙って梨花の気持ちを探っていた。
「最上さんの側にいて、妻を演じ続ければ、借金は払わなくていいと言われていたことはちゃんと覚えています、その道が私にとって最良の選択肢だとも思います、でも……」
俺は梨花の出した結論が分かり、自分から答えを口にした。
梨花に言われたらショックがでかい、情けない男だ。
「俺と別れて、やつとやり直したいってことだな、俺は借金さえ払ってもらえればなんの問題もない、さっさと荷物をまとめて出て行け」
「違います」
梨花に背を向けた途端、予想しなかった言葉に驚いて、振り向いた。
「私、最上さんの妻を演じ続けます、そうしたら借金は払わなくていいんですよね」
「やつを愛しているんじゃないのか」
「私、わかったんです、愛していたら側を離れなかったんじゃないかって」
「七年前はそうだったかもしれないが、再会してずっと探してくれていて、五億の借金を払ってくれると聞いて、気持ちが動いたんじゃないのか」
「私、最上さんの側を離れたくないんです、たとえ最上さんが私を愛してくれなくても、私が望めば最上さんの側にいられるんですよね」
「そうだな」
「もし、最上さんに愛する女性が現れても、私がサインしなければ、離婚出来ないんですから、私はずっと最上さんの側にいられますよね、覚悟してくださいね」
「俺を脅すのか」
「はい」
「いい度胸じゃねえか」