6月の始まりはただぐうたらして過ごした。寝る前に福岡でもらったお土産の明太せんべいを4枚食べたから起きて体重測ったらもちろんちょっと増えてた。また今日から仕切り直そう。油断するとすぐに日々は雑多に流されていくけど、そこをぐっとこらえてできるだけ調和を保ったままでいたい。
連歌の読み方についてのツイートをしたら「ちんぷんかんぷん」みたいな反応がいくつかあって「やっぱりここを変えたいな」と思った。
まずはもう一度連歌の読み方を説明する。ツイートに書いたのは以下の通り。
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[吉笑寸志孫弟子両吟百韻] 8/100
光あれ神のたまひて夏めくや(寸)
石仏縫いしあだし野の風(吉)
浄土穢土左右に分つ道の果て(寸)
朽ちし藤波香ぞ残りける(吉)
白き蝶まばたきの間に飛び立てり(寸)
ただ原なかで野馬いななく(吉)
涸れ河の砂の兵らが砂の城(寸)
何時とも分かぬ昼の月かな(吉)
連歌の読み方は
1→2
3→2
3→4
5→4
5→6
7→6
7→8
と、五七五(奇数番)が一つ前の七七(偶数番)にも繋がります。
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これが本当に「ちんぷんかんぷん」なのかな。
冒頭の「吉笑寸志孫弟子両吟百韻」。
これはただ連歌の名付け方に則ったもので記号的なものでしかない。
例えば名作連歌の1つに「宗伊宗祇湯山両吟」というものがある。意味は「宗伊さんと宗祇さんが湯山という場所で二人で連歌をやったよ」というくらいの感じ。二人だったら両吟、三人だったら三吟、と人数は変わるし、場所も湯山とか水無瀬とかもちろん変わる。
漢字が続くのと両吟とか百韻とか、馴染みのない言葉ばかりだから「よく分からない」と思う人が少なくないのは織り込み済みだけど、まぁこれは記号でしかないから、そこはどうでもいいやと思って文章に添えた。
そのあとの8行はまぁ五七五と七七の中身だろうと多分誰もが分かるはず。
本当はその前に、
1、光あれ神のたまひて夏めくや(寸)
2、石仏縫いしあだし野の風(吉)
3、浄土穢土左右に分つ道の果て(寸)
4、朽ちし藤波香ぞ残りける(吉)
とナンバリングしたらもう少し分かってもらいやすくなったかなぁと思いつつ、まぁ見た目を整えるためと文字数がギリギリだったから数字は省いた。
具体的に句(連歌の文脈で句と呼ぶのか分からないけど)の中で出てくる言葉で分からないものがあるのも当然で。
「夏めく」・・・春の終わり頃に、夏の気配を感じることを表す季語。
「あだし野」・・・京都の地名。火葬場の象徴みたいな場所。徒然草に出てくるように無情の象徴のような場所。あだし野は化野とか徒野とか仇野と書かれる。今もあるあだし野念仏寺には無縁仏を祀るたくさんの石仏がずらりと並んでいる。(祀るという言葉が合っているかは分からない)
「浄土穢土」・・・何となく天国と地獄みたいな感じで解釈していたけど、「浄土」は汚れがない仏や菩薩が住むところ。対する穢土は「この世・現世」ということらしい。
「藤波」・・・藤のこと。万葉集あたりでは藤波と表現されることが多かった。
「涸れ河」・・・かれがわと読む。読み方に確信が持てなかったから、寸志さんから送られてきて、そのままコピペしてググった。水の流れていない川。冬の時期に積雪の関係で水が流れなくなった川のことも意味して、この場合は冬の季語。今回は単に水の流れていない川という意味での使われ方。あとに続く乾いたイメージの砂があるから、読んだ時にもそう感じた。
「何時とも分かぬ」・・・分かぬが、分かれないという意味以外に、変わらないという意味もあるよう。用法的に正しいかは分からないけど、古典文学でいつも変わらないという使われ方をしているのを見つけたから、その意味で使った。
これらはもともと僕も知らなかった言葉たちで、今回の連歌作りを通して寸志さんから受け取って触れたり、自分で調べて見つけた言葉。知らない言葉とか使い慣れない言い回しとかがあるだろうけど、気になったらググったらすぐに意味は出てくるし、別に調べるまでせずに何となくで読み飛ばしてもらっても別にいいか、くらいの感じで載せた。
問題の連歌の読み方のところ。文字数制限で、実際に句を載せて説明できなかったけど、書いたように
1→2
3→2
3→4
5→4
と、五七五(奇数番)が一つ前の七七(偶数番)にも繋がります。
だけだと、改めてそんなに分からないものなのかなぁ。
もともと自分がそう思っていたように、連歌と聞くと「前の五七五を受けて、後ろに七七をつける」とはスムーズにイメージできると思うけど、実際は「一句目{発句(ほっく)と言う}だけ例外で、それ以降は七七が読まれた次のターンでは、その七七の前につく五七五を作る」という風に、「五七五、→七七、五七五、→七七」という一方通行じゃなくて、「五七五、→七七、←五七五、→七七、←五七五」となるのが正解で。ここは確かにややこしいけど、「五七五を担当する人も、別の人の影響を受けるのが連歌か」と思ったらそれは当たり前でもあって。じゃないと、七七の人はずっと前の人の影響を受けられるけど、五七五の人はひたすら自力だけで読み続けることになる。
この「五七五側も読むときに縛りがある」というのはかつての僕と同じくみんな知らないだろうと思ったからそこを説明しておこうと書いたのが件の文章で。ナンバリングがないけど、脳内でナンバリングして、
1、光あれ神のたまひて夏めくや(寸)
2、石仏縫いしあだし野の風(吉)
3、浄土穢土左右に分つ道の果て(寸)
4、朽ちし藤波香ぞ残りける(吉)
5、白き蝶まばたきの間に飛び立てり(寸)
添えた数字
1→2、
3→2、
3→4、
5→4、
と照らし合わせたら、
1→2
光あれ 神のたまひて 夏めくや
石仏縫いし あだし野の風
3→2、
浄土穢土左右に分つ道の果て
石仏縫いし あだし野の風
3→4
浄土穢土左右に分つ道の果て
朽ちし藤波香ぞ残りける
5→4
白き蝶まばたきの間に飛び立てり
朽ちし藤波香ぞ残りける
となる。
このルールを知らなかったら、
「浄土穢土左右に分つ道の果て」は「朽ちし藤波香ぞ残りける」だけにしか繋がらないと思えてしまうけど、実際は1つ前の「石仏縫いし あだし野の風」にも繋がるように考えられていて、そこは前提として知っていた方が連歌の味わい方がより豊かになるだろうなぁと。
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さて随分長くなってきたけど、ここからが一番書きたいことで。
まずはこれらを知らないことに対して、もちろん僕は何もヘンだと思わなくて。なぜなら僕自身がここで書いたことを知らなかったから。
連歌の読み方も、「前のに戻って読む」というのはやっぱりややこしいし、説明を読み直しても「ん?どういうこと?」とつまりながら何度も繰り返し経験して、ようやくすんなり理解できるようになった。
俳句の経験もほぼない素人だから出てくる言葉とか、文法上の活用とかも知らないことだらけ。(「香ぞ残りける」の時は、体感では何となく「香ぞ残りけり」とやりたかったけど、調べたら「ぞ」に続くのは「ける」だと出てきて、そう直した。現時点では連用形がどうたら、連体形がどうたら、と古文の授業で習ったあれらを全然理解できていないから、まだ一般的な形でこのルールは理解できていない。ひとまず「ぞ」に続くのは「ける」だ、と限定的にだけインプットしている状態)。
僕自身が、これくらい色々なことを知らない人間だから、同じようにこれらを知らないことに対してヘンだと思うはずがない。
一方でしっくりくる言葉が見つからないけど、「これらを知らないこと」を明示した方が自分にとってプラスに見られる、みたいな価値観がある気がしていて、それが僕はすごく嫌いで。
「僕はこんなにものを知ってます。偉いでしょ」というスタンスはもちろん大嫌い。
「私はものをこんなに知りません」というのは全くダメじゃないし当然のことと思っている。(現に僕もこの状態で、知らないことだらけ。)
ただ「私はこんなにものを知りません。エッヘン!」という感じの立ち位置はもう本当に大嫌いで。
もちろんその根っこには謙遜が多く含まれていることを知っているし、また「マウントを取る」という言葉があるときから多く使われ始めたけど、世の中には「僕はこんなに物事を知ってます。偉いでしょ」という下品な連中がわりかしいて、しかもそういう人たちは「えっ、こんなことも知らないんですか?」と他者を下に見る傾向があるから、自分がそうならないようにとしての反動なのかで、生存戦略として「へりくだって、下に下に」という振る舞いが現在では主流派だと感じていて。でも「いや、それはダサいよ」という気持ちがずっとあって、一番最初に戻るけど、「やっぱりここを変えたいな」と僕は思う。
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エンタメであるはずの映画とかですら、長時間の視聴に耐えられず再生速度を速める人がたくさんいるらしい現代において、この投稿も、もはやこれだけ文字数があるというだけでそりゃ読まない人もたくさんいるだろうし、それは別にそれで良いと思ってもいる。
繰り返すけど「文字がたくさんあると頭が痛くなっちゃうんです」までなら良いけど、そこに「エッヘン!」感が入ってくると、それはもう大嫌いで。さらに繰り返しておくけど、「ドフトエフスキーの全集を二日で読みました」はまだ良いけど、そこに「エッヘン!」感が入ると嫌い。加えて「えっ?あなたはドフトエフスキーの全集を読んでないんですか?」感が入るともう大っ嫌い。
残念ながら今の日本は
「文字がたくさんあると頭が痛くなっちゃうんです。エッヘン!」
「私も、私も!」
という価値観が多数派だと思っていて、だからもちろん普段の高座ではアウトプットの仕方を、そこに向けて整えるようにしている。それは僕にとって落語が、ただ「芸術」としてあるものじゃなくて、「演芸」としてあるものだと思っているからで。
たまたま僕は思考の癖として「理屈っぽく論理がごちゃごちゃしている」傾向にあるから、自分の生理にそってそのまま表現しようとするとどうしても理屈っぽく受け取られてしまい、それが壁となって伝わりづらくなる危険性があるから、そこはマイルドに補正するように心がけている。「一人相撲」とか「ぞおん」とか「くじ悲喜」とか「ぷるぷる」とか「歩馬灯」とか、今の段階で勝負ネタとして信頼できているものはそこをクリアできているはず。でもそのさじ加減は難しくて、未だに調整を失敗してしまうことも少なくない。
ただ、そもそも「落語」に興味を持って、例えばネットで聴いてみたり、会場に足を運んでくださったり、僕のツイートやブログを読んでくださったり、している方々は、どう考えてもその時点で「文字がたくさんあると頭が痛くなっちゃうんです。エッヘン!」勢では本当はないはずで。じゃないと、普通は落語なんて聴いて楽しいと思えるわけがないから。
現時点ではそれが「生存戦略として是とされている」から、そこに合わせる形で「文字がたくさんあると頭が痛くなっちゃうんです、エッヘン!」的振る舞いをとってしまっているはずだろうから、だったら「いやそれはダサいことですよ!」と上書きして、草の根的にそこの価値観を変えてしまいたいなと思う。
そんなこと渋谷駅前で待ち合わせをしている人たちに成し遂げようと思ったら絶対無理で(そこは教育界隈の方々にお任せして)、でもそもそも落語に興味を持てている側の人に対してだったら、ちょっとの熱量で全然可能なんじゃないかと思っている。
そしてそれはとても高尚な思想由来の動機ではなくて、そういう人の割合を増やした方が自分の落語はもっとウケやすくなるに違いないというとても現実的な動機だったりする。