久々の【にわか独りよがり考古学】です。

https://ameblo.jp/kissam59/entry-12488086391.html

からの続きになります。

 

なぜ榛名山の南東麓に牧場があったのでしょうか?

裾野の広さから言ったら赤城山の南面です。

ズバリ、榛名山を背にして、利根川、吾妻川、井野川、烏川に囲まれているからですね。

旧利根川(現広瀬川水系)にしろ、現利根川にしろ東山道は榛名山南東の馬場に出入りする場合は、厩橋を渡る必要があったわけです。

 

グッ

 

なぜ古墳の埴輪に武人のものがあるのでしょうか? 古墳時代の群馬は農耕、東山道という交通インフラのある交通手段としての馬の需要を支えたからなのですが、実は倭の五王の時代(四世紀後半から六世紀初頭)に大陸との交易や朝鮮半島への出兵との相関も考えられます。当時東日本からも国防軍として民兵が借り出されたのでしょう。また、経済力を備えたそのリーダーが、保渡田古墳群に葬られた方々ではないかな? となると舟形石棺の意味も説明出来ます。

すなわち、北九州から”船”で大陸に渡るまでは、陸送手段としての馬が必要です。もちろん河内あたりから瀬戸内海沿いに、船で移動することも考えられます。それらの船の船長は前記リーダーでもあります。

 

関裕二 さんの 古代日本人と朝鮮半島 (PHP文庫) を読み終えて思った次第です。

 

【参考記事】

https://ameblo.jp/kissam59/entry-12475100430.html