牛小屋の牛を冷やかしながら民家の脇道を進むと、程なく山道に入ります。林の中をしばらく進むと、右手に何やら岩屋のようなものが。岩を組んであるようで、手前の岩と杉の若木とに注連縄が張られ、結界が設けられているようにも見えます。右上に据えられた石碑には「駒嶽開祖 寂本神社」と彫られている様子。真ん中の岩には横に1本線が彫られています。何か意味があるのでしょう。

木曽路名水探検隊のブログ-寂本神社1  木曽路名水探検隊のブログ-寂本神社2


 多くの登山道は、山岳信仰の行者によって開かれたと言われています。御嶽山黒沢口の覚明行者、王滝口の普寛行者、槍ヶ岳の播隆上人などは有名ですが、木曽駒ヶ岳も、文化8年(1811年)に下諏訪の寂本行者によって開かれています。この「寂本神社」も寂本行者を祀ったものなのでしょう。


 しばらく行くと、右手に幾体もの石仏や石碑が立ち並ぶ一画が現われました。のぼりには「駒ヶ岳保食大神」と書かれています。石碑にはどれも「○○霊神」の文字が。来るときに見た「心明霊神」の霊場とよく似ています。ここもどこかの講社の霊場なのでしょうか。

木曽路名水探検隊のブログ-駒ヶ岳神社参道2


 目指す駒ヶ岳神社はその先にありました。山の奥に造営されているにしては立派な神社で、2間四方の神楽舞台が設えられた、間口6間、奥行5間の拝殿の奥に幣殿、さらにその奥に本殿と、本格的な神社建築の様式を備えています。我々はどうやら裏口から入ってきたようで、拝殿の正面には鳥居が建てられ、その先には参道が真っ直ぐに伸びていました。最初に見つけた山道を進んでいれば、この参道に辿り着いたかもしれません。

木曽路名水探検隊のブログ-駒ヶ岳神社本殿  木曽路名水探検隊のブログ-駒ヶ岳神社拝殿1


  垂木には精緻な龍の彫刻が施され、天の岩戸伝説の1コマを描いたものらしき額も奉納されています。奉納された額や幕には「名古屋○○會」とか「東京○○講」の文字があり、駒ヶ岳信仰が県外にまで広がっていることを窺わせます。町が建てた案内看板によれば、駒ヶ岳神社の創建は天文3年(1534年)とのこと。時の禰宜徳原長大夫春安が駒ヶ岳山頂に「保食大神」と「豊受大神」を勧請して奥院とし、麓に里宮を建てたのが初めとか。

木曽路名水探検隊のブログ-駒ヶ岳神社拝殿垂木1  木曽路名水探検隊のブログ-駒ヶ岳神社拝殿垂木2


 そもそも木曽駒ヶ岳信仰は御嶽信仰の亜流で、御岳信仰が人間性を追究する厳しい教えなのに対して、駒ヶ岳信仰は現世利益を求めるものとのこと。両者は対立するのではなく、並立して信仰されてきたそうです。

木曽路名水探検隊のブログ-駒ヶ岳神社拝殿2  木曽路名水探検隊のブログ-駒ヶ岳神社拝殿3


 開山は、前にもふれた寂本行者や尾張犬山の心明行者によって行われました。2合目の霊場で八十八夜に祈祷の儀式を行う「犬山乾山講社」や「心明霊神」ののぼりの由来がこれでつながります。ちなみに、もともと里宮は神官の徳原氏宅近くの小高い丘に祀ってあったのが、明治19年に今の場所に移転されたものとか。時の神官徳原一学の熱心な布教や、心明行者による集団登拝によって、立派な社殿が建てられ、県外各地に講社が組織されるようになったということです。

木曽路名水探検隊のブログ-駒ヶ岳神社案内看板


 ちなみに、御嶽信仰では、霊魂は聖なる御嶽から生を受け、それぞれの家へ神との縁で生まれたもので、死後は再び御嶽に戻るとされていて、その世界観を表現したものが霊神の碑=霊神碑なのだとか。霊神碑の立ち並ぶ場所=霊神場は、とても神聖な場所とされているのだそうです。駒ヶ岳神社の参道に残る霊神場からも、駒ヶ岳信仰が御嶽信仰の流れを汲んでいるでいることが窺えます。


 駒ヶ岳神社の祭神である「保食大神」は「うけもちのおおかみ」、「豊受大神」は「とようけのおおかみ」と読み、ともに女神とされています。名前に共通する「うけ」は食べ物を指すことから、食べ物や穀物を司る神と言われているとか。また、保食大神は牛や馬の神ともされていることから、駒ヶ岳神社の祭神として祀られることになったのでしょう。


 保食大神については、日本書紀に次のようなくだりがあります。


 あるとき、天照大神(あまてらすおおみかみ)が月夜見尊(つきよみのみこと)に保食神(うけもちのかみ)を見てくるように命じた。月夜見尊が保食神のところへ行くと、保食神は、陸を向いて米飯を吐き、海を向いて魚を吐き、山を向いて獣を吐き、それで月夜見尊をもてなした。「汚らわしい」と怒った月夜見尊は、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、月夜見尊とは二度と会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜に別れて出るようになった。月夜見尊に斬られた保食神は死に、その頭から牛馬が、額から粟が、眉から蚕が、目から稗が、腹から稲が、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。


 神社の入口の脇には「出征愛馬之碑」が建っています。「済南事件」「支那事変」と記されていますから、昭和初年から10年代にかけて、中国大陸で行われた日本と中国との戦役に徴用され、命を落とした愛馬を悼み、馬の神が祀られているこの神社に飼い主たちが建てたのでしょう。今でこそ馬は珍しい存在ですが、当時の農村では日常生活の中にごく当たり前に馬の姿がありました。きっと、家族の一員と言っても過言ではなかったでしょう。日本人と馬とが近い関係にあった時代を彷彿とさせます。

木曽路名水探検隊のブログ-出征愛馬之碑


 ところで、手水はどうなったのでしょうか。境内には手水場のようなものはなく、何でも必要なときに下から持ち上げるとのこと。残念ながら名水には辿り着きませんでしたが、思いがけず山里で信仰の場に間近に接し、神々しさを覚える一行でした。(aki

木曽路名水探検隊のブログ-駒ヶ岳神社正面