今日から、なんとなく考えた取り止めのないことを書いていこうと思う。

私にはこの手の話をする友達がいたのだが、忙しくしているその子に長ったらしい話を送るのは申し訳ないことだと、恥ずかしながら最近になって初めて気づかされたため、こうして場所を移したというわけだ。


私は元々内向的な性格で自分から何かを話すことはほとんどなく、もっぱら他の人の話を聞くことの方が好きで、相手の話したい内容が無くなった後の会話がどうしてもうまく行かなくなってしまうことが多い。

元々自信のない性格だとは思っているが、それがここまで会話に支障をきたすものかと思うとなんとも歯がゆい気持ちにさせられる。

以上のような性格のため、自分が何をしたいか、何が好きかといった話を声に出してするのも物凄く苦手だ。

なぜか例外的にネットを介したメッセージ機能ではその困難さが軽減される気がするのだが、恐らくチャットが文章を書くことの延長線にあたる表現方法だからこそ乗り越えることができる問題なのだと思う。

それにばかり頼っていては日常的な会話に支障が出かねないことは承知しているため、両者の折り合いをつけなければいけないのだが、その境界線がどこなのかわからないことも、私が最近頭を悩ませている課題の一つだ。


大まかな自己紹介から一転して今考えてるのは、何かを好きになる、好きでい続けるとはどう言うことか、という問いである。

何かを好きになるために必要なものとは何かと考えた時、私がまず思いついたのは勇気と好奇心だ。

まず好奇心が無ければ、新しいものに出会いたいと思う衝動も生まれない。

勇気が無ければ、新しい体験に飛び込んで何かを獲得することもできない。そう考えたわけだ。

それでも後に考え直すと、人間とは何かを好きになるためにそれほどまでに勇敢である必要はあるのだろうかという疑問が生まれる。

むしろ、純粋な好奇心に突き動かされる時、自身の勇敢さと臆病さを忘れられる時こそが、最も何かを好きになる人間の心情に近いのではないだろうか。

勇敢な人間はわざわざ自身の勇敢さを意識することはないとする私の考えが正しいなら、そう考えることができるだろう。

私も勇敢な人間を羨み、その域に達することのできない自分に失望することは何度もあった。

しかし勇敢さがその意識の不在の中にこそあるのだとしたら、私にも何かできることがあるという希望を抱けるように思う。

微かな不安の前に佇む時の静かな感覚こそ、人間の美徳の一つなのかもしれない。

私は今でこそ考え込みがちで気分も沈みがちな性格になってしまってはいるが、人生に絶望するようなことはほとんどない。

恐らく無意識下の微かな勇気と好奇心が支えてくれているからなのだろう。


今週の木曜日から、私はその友達と島根に旅行に行くことになっている。

その友達からは9月上旬からずっと、私はもう友達じゃない、嫌いだ、一緒に遊ぶのはこれで最後にしよう、といったことを言われていた。

それで今回の旅行には複雑な感情を抱いているのだが、私にはそれが100%本気の気持ちから出たものとは思えなかった。

そして先日その子から語られた言葉を聞く限りでは、何かしら隠されている思いがある。と考えていた私の予感は的中していたようだった。

大まかに言えば、私に心穏やかに生きていて欲しかったとのことだ。

他人と自分を比べて傷つくことも、上手く自分の考えを言えずに苛立ち落ち込むことも、あの子は私に望んではいなかったのだ。

初めはこんな都合のいいことってあるかと半信半疑だった。自分の希望的観測が的中してしまっていることがなかなか信じられなかった。

どうしてそんなに優しくしてくれるの…?と自信のなさから生じる他人を疑うような気持ちでいっぱいだが、今まであの子が語ってくれた言葉を整理していると、どうしてもそこにたどり着いてしまう。

友達として心配してくれていることがわかるのが嬉しくて、反面自分の期待どおりに物事が動かされているような気がして何故だか悔しくもあった。

今は、人間が他者を思いやる気持ちの尊さを噛み締めていたい。


こんな感じで、ほぼ日記みたいな文章を上げていければいいなと思う。

マレマレ・神・バイデジタルのお導きがありますよーに