※ブログ管理人が以前運営していたホームページ「つばさバス」内で公開していた特集をこちらで再公開いたします。

こちらの記事は2006年1月時点の動向を基に作成した記事を一部修正しております。

画像についても掲載以前の撮影ですので、現存していない可能性があります。

また、撮影地についても月日の流れにより土地の地主・管理人が変更されている場合もありますので、みだりに撮影へ行かれることはおやめください。

 

 

第1章:幻の紀泉鉄道(水間鉄道未成線)
 

粉河熊取線を語る為にはまず、この「紀泉鉄道」を語らなければならないであろう。
水間鉄道清児(せちご)駅から分岐し、熊取町七山・朝代・泉佐野市土丸・犬鳴山を経て粉河までの11.0キロのルートで、
昭和2年に延伸が計画された。

 一度は戦争の為立ち消えとなったが、昭和22年に再び計画され昭和25年に建設免許を受け用地買収に着手した。

 その後、南海電鉄から車両・資材、貝塚市から建設費の一部の支援が決まり本格的に新会社の設立・着工へと向かったが、地場産業の不振や朝鮮戦争の影響で足踏みすることとなった。
 昭和27年になって情況が好転し、ようやく紀泉鉄道が設立され、昭和30年3月第1工区(清児~熊取役場付近)を起工した。


まもなく資金難と言う新たな波が押し寄せる・・・


工事予算が当初計画された金額よりも大きく膨らんだ上、資材・工事費の高騰で建設中断、
昭和41年10月20日の定例役員会で水間鉄道社長は犬鳴~粉河間を廃線とし、清児~犬鳴のみを一挙に開通させる。
これにより建設資金は半減し、用地の買収も熊取~犬鳴だけで済む。また工事も既に60%は完成しているので完成させ易い。
 犬鳴以遠については完全に廃線にするのではなく、将来、情勢の変化により見通しがついたときは再度免許を申請する旨表明した。
結局、その後工事が再開されることは無かった・・・
 


清児駅構内(そらえ様提供画像)

千石荘付近に残る溝橋(そらえ様提供画像)

千石荘駅予定地(そらえ様提供画像)

熊取町七山に残るアーチ橋(そらえ様提供画像)


泉佐野市大木地内 草木で覆われていますが、赤矢印部分が平地となっています。

(カメラを構えた場所は私有地ですが、許可を得て立ち入っています。筆者撮影)


一土庄橋の左側が犬鳴温泉駅予定地(筆者撮影)


第2章:バブル景気を向かえて


 1980年代後半、日本は「バブル景気」に沸いていたのは周知の事実。都市部では地価が高騰しそれと共にマイホームは郊外へと広がっていった。近畿圏では大阪市内だけではなく当時建設中だった関西国際空港への期待感もあり、泉州一帯においても地価が上昇、宅地開発も和歌山圏内へと広がっていった。

 水間鉄道では不動産部門があり、もちろん和歌山紀北地区への宅地開発にも進出していました。
 住宅の販売には付加価値の要素が必要になってきます。住宅の折込広告などをご覧いただければ判るとおり、周辺の施設がどれだけ充実しているか?(ショッピングセンター・学校・交通アクセスetc...)と言うわけです。

 一方行政問題では関空建設などのプロジェクトもあり、水の消費量の増大が懸念されていた。その解決策の一つとして大阪府は不足分を紀ノ川より配水してもらえるよう、和歌山県に働きかけていた。これが紀ノ川分水問題である。
 長年に渡って交渉が行われてきたが、昭和62年11月、「紀ノ川分水合意」にて決着する事になる。

 この合意事項の中に、大阪府が府県間道路の整備を行うという条件があった。

 こうした状況の中、国の運輸政策審議会の答申で、新しい開発拠点として2005年までに水間鉄道の延長が位置づけられた。
しかし、住民側からは「空港ができるというのに2005年まで待てない」との声が挙がった。


 この打開策として、用地買収の必要が無く実現可能なバス路線の新設が急浮上した。


第3章:未成線からの前進


 バス路線の開設について、当時はまだ自由化されておらず認可制となっており、運輸局による審査が必要であった。
この粉河熊取線においては、水間鉄道が貝塚市内でしか営業していないというエリアの問題があった。
 自治体では平成元年8月、当時の熊取町長・粉河町長・打田町長が連名で定期バス路線の開設を求める要望書を近畿運輸局宛に提出、自治体はかねてから水間鉄道へ要望を出していた・道路整備の進捗・水間鉄道延長線の代替手段であることをアピールした。

 これを受けて近畿運輸局の調整などもあり、水間鉄道・南海電鉄(当時)・和歌山バス(当時)3社が運輸協定を交わし、平成2年年8月1日、3社によって熊取駅前(仮広場)~粉河駅前を45分で結ぶ特急バス「紀泉シャトルライン」が開業した。

 バスの運行に当たって、乗客数の予測では、中型車両で十分であったのだが、犬鳴山付近の急勾配に対応する為に、各社とも大型の新造車で対応した。※1
特に水間鉄道では自社の鉄道代わりになるバス路線ともあって赤字を覚悟し使命を果たしていたそうだ。

 南海・和歌山バスとも、後に中型車両へ置き換えられたが、水間鉄道に限っては最後まで大型車で貫き通した事からもお判りいただけるであろう。※2
 

※1 南海電鉄バスでは鶴見花博輸送の為、粉河線専用車を先行投入し9月の会期終了までは堺営業所にて花博輸送で使用した。


※2 池田隧道工事による片側通行時のみ中型車を使用
 

水鉄バス粉河営業所と南海ウイングバス南部
2001年4月16日撮影  ガードレールが邪魔ですみません・・・(筆者撮影)


粉河熊取線専属として新製投入された日産デ車
路線バスでは初めての観光カラーで、粉河営業所配属の為和歌山ナンバーであった。
<FONT size="-1">(尾仲英明様 提供画像)


粉河線の任を終えた後、更新。CIカラーになった和泉22き・・65号車(筆者撮影)


水鉄バスと連番で登録された、222号
運行開始当時は和歌山バス那賀営業所だった為、画像のカラーではなく、和歌山バスカラーでした。(そらえ様 提供画像)


2代目、比較的長期間存在した日産デ/西工車
貝塚での登録なので、和泉ナンバーでした。
(尾仲英明様 提供画像)


南海電鉄バスCIカラーでは初めての専用車です。
熊取駅前(仮広場)と粉河駅前(転回所)のみ、水間鉄道が停留所管理をしていました。
(尾仲英明様 提供画像)


和歌山バス那賀はこの車両より中型車での運用へ(筆者撮影)


(尾仲英明様 提供画像)


一時は運用を外れたものの、特定輸送受託による車両やりくりで粉河線に復帰。
ウイングバスでの幕引きを飾る事になった。(筆者撮影)


いすゞ/IKコーチ 

数年にわたり活躍しましたが、都市型車両での峠越えで結果的に寿命を縮める結果に・・・
(そらえ様 提供画像)


(筆者撮影)


貸切兼用車として購入されたハイグレード車。
トップドアの為一般路線には向かず、粉河運用で使用されることが多かった。
関空特定輸送として2005年2月末まで使用が決まり、粉河線から引退した。(筆者撮影)
現在の専属車、三菱製の和歌山22き・496号車
2006年以降も引き続き活躍するであろう。(筆者撮影)


第4章:快走の影で
 南海電鉄バスでは県境間特急バスの第2弾として、泉佐野駅前~岩出駅前の運行を計画し、近畿運輸局に申請していた模様。しかし、粉河熊取線の乗客数が予測よりも下回ったために断念したようだ。
 水間鉄道の場合は、本来計画されていた鉄道建設が、さらに建設費の増大で自己資金での建設を断念。さらにバブル期の不動産投資に失敗、債務超過に陥った。これが基で水間鉄道は新線計画を断念し平成8年9月30日付けで清児~犬鳴間鉄道敷設免許の廃止申請に至った。確保していた鉄道用地は売却し補填費用に充てたため、事実上鉄道開通は幻となってしまった。

 代替バスの存在が逆にメインルートに据えることが出来ると判断し廃止の話が進んだようだ。


第5章:破綻・・・そして迷走する。
 平成17年4月、水間鉄道は大阪地裁に会社更生法の適用を申請、財産の保全管理命令を受けた。負債は140億円。
支援企業として外食大手の「グルメ杵屋」が名乗りを挙げ会社の建て直しを図ることとなった。

 バス関連では1日フリーきっぷや昼間割引回数券などの高額割引が廃止となり、不採算路線の整理で「紀泉シャトルライン」からの撤退を決めた。
それに追随する形で南海ウイングバス南部も路線撤退を決定、平成17年12月31日をもって3社共同運行を解消した。

皮肉にも平成17年は水間延長線の開業予定の年でもあった・・・


~共同運行最終日~


南海ウイングバス南部 紀の川市 神通にて(筆者撮影)


水鉄バス 午前最終便 犬鳴山にて(筆者撮影)


紀の川市 神通にて(筆者撮影)


和歌山バス那賀  犬鳴山にて(筆者撮影)
引き続き運行を担当するが、この日で「特急」の文字が無くなった。


第5章:そして新時代へ
 平成18年1月1日より、和歌山バス那賀による単独運行がスタートした。
 共同運行時代は各社6往復づつ合計18往復だったのが16往復(平日)の運行となった。


 2本の運行減とはなるが、専属車両を2台に増やして対応するなど、影響を最小限にとどめてくれている。利用者の立場である私からすると、1日数本の運行まで覚悟していただけに、和歌山バス那賀の対応には感謝すると共に、今後も紀泉シャトルラインにエールを送って生きたいと思う次第である。


元旦より専属車両として導入されたリエッセ 小型登録のトップドアだ。
(筆者撮影)
 

会社名などの敬称は省略させていただきました。