自由意志と業(ごう)について教えてほしいという質問に対して、五井先生がお答えになっています。
その五井先生のお話をシェアさせていただきますね。
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■問い
人間には自由意志がありますが、この自由意志と業についてご説明下さい。
■五井先生のお答え
人間のもっている自由意志というものは、本来、神のみ心そのものであるのですが、自分勝手な気ままな行為をしても、それが自由意志だと考え違いしているのが、現今の肉体人間の在り方のようです。
この考え違いが、地球人類の精神的進化を妨げている大きな原因であるのです。
業というのは、神のみ心と人間の心とが、ぴたりと一つにならないで、そのつながりにずれができ、そのずれ、つまり神のみ心より、自己保存の本能のほうに心が傾いた時に起こった想念行為なのであります。
人間が万物の霊長といわれ、自由なる意志をもち得て、創造したり思考したりすることのできる力を授けられているのは、その自由意志や思考能力をもって、神のみ心、み姿を、この地上世界に現すためのものなのです。
そして自分を守る本能を備えているのも、神のみ心を自己という者の心を通し姿を通して現すために与えられているのであって、ただ単に自己の自我欲望を充たすために与えられたものではないのです。
ただ単に自己の肉体を守り、自己の集団を守るために自己保存の本能が必要であるとするならば、それは動物となんら変わることはないのですが、人間には、そうした本能を適度に抑制し、神のみ心の現れである、愛と真の道のままに進み得るための思考能力と自由意志が授けられているのであります。
この理がわからぬと、いつまでたっても、個人も人類も神のみ心を現し得ることができないのです。
ところが、そういう真理は頭ではわかってるのだが、実際に行うとなると、どうにもできないのだ、というのが、今日の人間のいつわらぬ心のようであります。
それ程に、過去から今日まで積んできた人類の業、つまり、神(光)から離れていた人間の心の隙間にできた暗い重い波動が、厚く深いのです。
この暗い重い波動は、人間の内部にある本来性の心、本心の光明が外に輝きでるのを、妨げているのです。
本心の光明がそのまま外に輝きでれば、その人は神のみ心の素直な現れである自由意志のままに行動できるのですが、業想念波動が厚いので、どうしても、本来の自由意志が、そうした業想念波動でゆがめられて、その人の行動となって現れてしまうのです。
今日の人たちが、自由意志だ、自由意志だと叫んでいるのは、ほどんどが、業想念をかぶった自由意志であるのです。
そしてお互いがそうした自由意志を強調して生活しているのですから、個人にしても国家民族間にしても、力の強いもののほうがその自由意志を行為にうつすことができるので、弱肉強食の動物たちの生活を同じことをしていることに結果的になってしまっているのです。
では一体そうした生活を個人間にも国家民族間からもなくし得るためにはどうしたらよいのでしょうか。
私はそれを世界平和の祈りの実行によって為し得ると信じているのであり、その運動に身心を投げ打っているのであります。
どうして世界平和の祈りによって、業に妨げられず真の自由意志のままの行動ができ得るようになるかと申しますと、私が常に申しておりますように、世界人類の平和を願うのは、神のみ心そのものであり、世界平和の祈りは、世界人類の誰しもが心から希求していることなのであります。
ですから、何事をするにも、その一挙手一投足の間も、世界平和の祈りを根底にして生活すれば、その人の想いはいつでも神のみ心の中で生活していることになり、いくらその人の本心を業の波動がつつんでいても、その業想念波動ごと、神の大光明の中に運び込んでいることになり、いつの間にか、本心の自由意志を妨げている業の波動も神の大光明の中で浄まっていってしまうのです。
すべての個人がそうした生活をしていればおのずから世界人類が光明化し、平和な交際ができるようになってくるのです。
この事実は私たち多くの人々が実践していて、大きな好結果を得ているのです。
人間の一人一人には守護の神霊が慈愛をもって守っていて下さるのであり、各国家民族もそうした慈愛に守られているのです。
その真理を今日までの人々が、はっきり知らなかったため、人類世界は今日の苦境にまで追いつめられてしまったのです。
しかし、今や世界平和の祈りという易行道によって、守護の神霊の救済の大光明が、この地球界に輝きわたる時になってきたのであります。
どうぞ一人でも多く、一日も早くこの祈りの実行に参加して下さることを願って止みません。
五井昌久著「続宗教問答」より
昭和45年(1970年)発行