安岡正篤さんの言葉

【人は環境を作る】

環境が人を作るということに捉われてしまえば、人間は単なる物、単なる機械になってしまう。
人は環境を作るからして、そこに人間の人間たる所以がある、自由がある。即ち主体性、創造性がある。だから人物が偉大であればあるほど、立派な環境を作る。人間が出来ないと環境に支配される。

 うん、今日はコメントはありませんね!!
 まさしく、このとおり。。。になりたいな(^^♪


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安岡正篤さんの言葉

【師を持つ (1)】

若いあいだに、自分の心に理想の情熱を喚起するような人物を持たない、
理想像を持たない、私淑する人物を持たないのと持つのとでは大きな違いです。
なるべく若い時期にこの理想精神の洗礼を受け、心の情熱を燃やしたことは、
たとえ途中いかなる悲運に際会しても、いかなる困難に出会っても、
かならず偉大な救いの力となる。

こんな文章を読むと、若い頃だったら、将来への可能性への期待が湧き出るような感情を持つのだが、年齢を重ねると、いままでそんな理想的な人って現れたのだろうか?などと思ってしまう。

逆に、「若いあいだに出会うことが良い」旨を説かれてしまうと、若くない自分はなんだか少しだけ凹んだ気分になってしまう。

けれども、どうだろう?理想の人になかなか出会えない自分は、描いた理想の人に対して過度の期待をしすぎていたのかもしれない。

誰だって、自分のことで精一杯なのである。
誰だって、自分の理想の人に出会いたいと思っているのである。

めったにそんな人がいないのはむしろ当たり前。。。

年齢を重ねて、若くなくなってしまった今、時計の針を戻すことはできない。つまり、若いあいだに、であることはあり得なくなってしまった。

では、私が出会いたかった理想の人に、私自身がなって、若い人たちと接していこうではないか!

それくらいの元気は必要ですよね。


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安岡正篤さんの言葉

【高邁な人】

 粗忽・がさつは最も人格の低劣を表す。
高邁な人格はいかに剛健・活発にみえても、
その人のどこかに必ずしっとりした落着きや静けさを湛(たた)えているものだ。


今年一番の言葉かも・・・自分的に。

気分が落ち込んでいるときなんか、無理に元気を出そうとして、ついつい粗野な態度をとってしまうことがある。お笑い芸人のノリで、自分では楽しく盛り上げているつもりなのだが、心のどこかで、違和感を感じていたことがあった。

それが、この言葉の戒めだったのかぁ!


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安岡正篤さんの言葉

【理想を持つ】

あらゆる面において生命力の旺盛な少年時代・青年時代には、必ずこれから先ああしてこうしてといろいろな考えを持つ。これを「理想」という。
その理想が、その人間に照らしてあまり実現性がないという場合に、これは「空想」ということになる。
その人間に実力があれば空想に非ずして、理想になる。だから理想を持つということは、これは人間生命の必然の作用であって、その理想をいかに空想に堕さしめざるかということが人間修行の一番大事な点である。

「理想」といかないまでも、はたまた「目的」「目標」といかないまでも、毎日、「こんな一日を過ごしたい」くらいのゆる~い「方向性」をもって過ごせるといいですね。

何となく日々を送っているときって、自分のやりたいこととか、意識することなく、タスクに追われて終わってしまう。

だから、「方向性」でもいいし、「今日はこれだけ」といったものでもいい。一日の心の軸を持ちたいです。

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安岡正篤さんの言葉

【自分を責めよ】

人間なにが悩みかというと、自分が自分を知らざることである。
人を論じたり、世を論じたりすることはやさしいが、自分を論じ、自分を知るということは、実はこれが一番大事であるにかかわらず、なかなか難しいことである。
人間は、先ず自分を責むべきであって、世の中や時代を責むべきではない。
世の中が悪い、時代が悪いというのならば、そういう時世に対して、一体自分はどれだけ役に立つのか、それをどう解釈し、それに対してどういう信念・情熱を持っているのか、よく自分を責めるがよい。

震災後、久しぶりの記事となりました。
震災で、被害を受けられた方々のことを考えると、心が痛んでやみません。
がんばってください!と言うには、あまりにも厳しい状況かと思います。

そして、今日の言葉。この未曾有の大惨事に、自分自身は一体何ができるのか?自らそのように問いかける方も多いかと思います。

安岡さんは、「責める」という表現をされていらっしゃいますが、私なりに考えるに、無力な自分を非難せずに、ほんとうに出来ること、ベイビーステップで良いのかと思います。


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