明徳出版社『王陽明全集第八巻』所収「大学問」現代語訳
その5
前回はこちら
https://ameblo.jp/kiruan702/entry-12587960515.html
今回の内容に入る前に、『大学問』という書物について少し補足的な説明をさせて頂きます。
これは、儒学の基本テキストである『大学』について王陽明が解説したものです。
したがって内容は当然、『大学』を踏まえたものとなっています。
これを執筆した王陽明は、同時代の学者や門下生に向けて書いたのですが、かれらはみな『大学』の内容を丸暗記していました。
そのため、「明明徳は~」「親民は~」という言葉がいきなり出てきても当時の読者はすんなりと読めたのです。
しかし、われわれは日常生活で『大学』を読む機会などありません。そのため、引用が多いこの文章はとても読みづらいのではないかと思います。
そこで、『大学』の原文を掲載しているサイトはないかと探してみました。ちょうどよいサイトを見つけましたので、以下にリンクを貼らせて頂きます。
本記事を読まれる際にはこちらをあわせて参照されるとよいと思います。
http://sorai.s502.xrea.com/website/shishodaigaku/category/%e7%b5%8c/
(『大学問』で解説している文章は上記リンク内の5つの記事内に収録されています。原文は決して長い文章ではありません。)
今回の記事では、前回までの続きで『大学』に出てくる
「古の明徳を明らかにせんと欲するものは~」以下の文章についての解説です。
いわゆる、「平天下、治国、斉家、修身、正心、誠意、致知、格物」の八条目のうちの「正心、誠意、致知」が今回のくだりです。
是非、以下の記事の原文と照らし合わせながら読んでみてください。
http://sorai.s502.xrea.com/website/shishodaigaku/%E7%B5%8C/kei04/
それでは、本記事の本題(現代語訳のつづき)に移ります。
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括弧内は私の付け足した注釈です。
尚、当方専門家ではありませんので誤訳が含まれている可能性が大いにあります。
しかし、ここでは文の表現の末節にこだわるよりも本意を掴むことを重視するという立場から、独断を交えつつどんどん進めていきたいと思います。
語意に詳しい方は是非批評を加えて頂ければ幸いに存じます。
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(前回の続き)
(『大学』にある)「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は」より、「先ずその身を修む」までの文章(平天下、治国、斉家、修身の四つ)は、自分の心に備わっている徳を明らかにし、民に親しむという前回までの内容を踏まえれば意味は既に明らかである。
では、「その身を修めんと欲す」より、「知を致すは物を格(ただ)すに在り」までの工夫(正心、誠意、致知、格物の四つ)については、どのように力を用いればよいのであろうか。
これらは、まさに詳らかに徳を明らかにし、民に親しみ、至善に止まるの実践方法について書かれている。
身・心・意・知・物というのは、(修身・正心・誠意・致知・格物の五項目について)それぞれ工夫をおこなう対象である。また、それぞれの対象であるとはいっても、実体はただ一つものにすぎない。
格・致・誠・正・修というのは、それぞれの対象におこなう工夫である。また、それぞれ名前がついているが、その実は一つのことについていっているにすぎない。
何を「身」といっているのか。それは心が働きや形となって表れるところである。
何を「心」といっているのか。それは霊明に自己の主宰となっている働きをいう。
何を「身を修む」というのか。それは善を行い、悪を去る(退ける)ことである。
では、「身」は何もせずとも善を行い、悪を去ることができるか。そうするためには、必ず霊明なる自己の主宰者(である「心」)が「善を行い、悪を去ろう」と思い、そののちに働きや形となって表れることではじめて実際に善を行い悪を去ったということが実現するであろう。
したがって、その身を修めんと欲する者は、先ずその心を正すに在るのである。
そして、心の本体は性である。(性:天から与えられた本質、というほどの意。)
性は(天来のものであるから)不善がない。つまり心の本体ももともと不正はない。
であれば、何によって心の不正をただす工夫を見出せばよいのだろうか。
心の本体にはもともと不正はない。しかし心になにがしか意念が発することによって、その後に不正が起こるのである。したがって、心を正さんと欲する者は、まずその意念の発するところに注意してこれを正す必要がある。(これが「意を誠にする」(誠意)の解説である。)
ある一念が発してそれが善念である時、人がその意念を好むのはまるで美しいものを好むのと同じである。
また、ある一念を発してこれが悪念である時、この悪念をにくむこと、まるで悪臭を嗅いでにくむことと同じであろう。
その意味で、(意念が発するところに注意して)意が誠にならなければ、心を正しくするということはできない。
しかし、意の発するところには善念と悪念がある。したがって、その善悪がはっきりと分別できなければ、何をもって真とするか、あるいは虚妄なものなのか、混迷してしまうであろう。これでは、意を誠にしようとしたところで、できるはずもないのだ。
したがって、意を誠にせんと欲する者は、かならず「知を致す」という工夫が必要である。
「致」とは「至」と同じで、いわゆる「喪に哀しみを致す」というときの致すと同じである。
(喪に服して哀しみを感じていると同時に、それが切実で極限まで張りつめていること)
『易経』に、「至るを知りてこれを至す」という言葉がある。「至るを知る」は知、「これを至す」は致すことである。
(至るを知る(知)とは哀しみの極限の境地を知っているという「状態」であり、これを至す(致す) とは哀しみを「感じている」動作を表す。致知とは、極限の境地を知り、かつ動作としてそれを行っているということ。)
朱子学者の思っているように、(致知とは)知識を拡充することではない。
(必要な工夫は、)吾が心の良知を致すのみである。
(今回、現代語訳はここまで)
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