私が俳優になりたいと思ったのは20歳 の時でした。

脚本家の倉本聰さん原案の「六羽のかもめ」と言うフジテレビ制作のドラマの最終回(1975年3月29日)で、黒柳徹子さんと加藤大介さんとのやり取りを観た私は、そのドラマの中で繰り広げられている世界にシンクロし「なんと言う“世界”があるんだ!あの世界に入ってみたい!」と思ったからでした。

でも、その“世界”って何なのか?それの何に?何故?突き動かされたのか?は、はっきりとは分らないままでいました。

その後、演技の勉強をして行く過程で、様々な芝居を観たのですが、「新派」と言う劇団の公演で水谷八重子さんと柳英二郎さんとで「婦系図(おんな系図)」と言うお芝居の中の「湯島の境内」と言う段(だん=部分と言う意味)をやると言う新聞記事を見て観に行く事にしました。1970年代当時は、お宮寛一(おみや・かんいち)も、お蔦主税(おつた・ちから)も世間の一般常識としてまだ通用していた時代でした。また、柳英二郎さんは映画にも多く出演されていたので、あのお爺さんか…とすぐ顔が浮かんだのですが、あのお爺さんが十代の純愛もののラブシーンをやるのか!?と期待と言うより、後(のち)の語り草になるかもしれないと、半ば冷やかし半分で観に行こうと思ったのです。幕が上がると、確かに水谷さんはしわがれ声でしたし、柳さんの声は歳を取った年配者の声でした。ところが、ふと気が付くとその事を忘れてしまったと言うより、目の前で繰り広げられている“現実”の空間に引き込まれているのに気付きました。アレっ?おかしい?と思いながらも、どんどん目の前の2人に惹きつけられ、しまいにはもう余分な事は考えまい、目の前の2人に集中するんだとなっていました。するとそこには、純粋無垢な十代の青年と美しい可憐な少女しかいませんでした。

そのうち、自分の背中の方から、何か強い気配を感じるようになりました。私はその時、1階の中央通路に急遽設られた補助席の列のほぼ真ん中辺に居たのですが、自分の背中の後ろの上の方、つまり三階席の方から強い「気」が一直線に舞台に届いているのを背中で感じとっていたのです。そうか、私と同じ気持ちでいるのだと感じた刹那、劇場全体、小屋全体が、劇場の中心となっている舞台の二人に向かってギュッと縮まった様な、凝縮したような、そしてピンと張り詰めた様な、強い緊張感に支配されているのを感じました。自然に涙が溢れ出てきて、頬を濡らすのですが、あえてそのままにしながら舞台の二人を見逃すまいと見ていました。

1978年3月の新橋演舞場、お蔦を演じた水谷八重子さんはこの時72歳、主税を演じた柳英二郎さんはこの時82歳。少なくともあの舞台の上では、紛れもなく十代の純粋な若者でした。

この時の感動はその後もずっと忘れる事はありませんでした。ただ、それが何だったのか?何に感動したのか?何で感動したのか?コレと言ったハッキリとした理由を見つけられないまま何十年も経ちました。 

その時から35年ほど経った2013年のある日、1967年の文学座公演の「大寺学校」という久保田万太郎作の舞台を録画したものを観る機会がありました。その舞台の後半の方で、主演の大矢市次郎さんが酒を飲みながら独りごちするシーンがあります。それが余りに見事で、生の舞台を観ている訳でもないのに、古びた映像を観ているに過ぎないのに、思わず魅入ってしまったのです。私の心の中に大矢市次郎と言う人がしっかりと刻み込まれました。

それが、その時から10年程経った3日前の2月8日の未明の1時30分頃、何故か、いきなりその時の大矢市次郎さんの事がふと思い出されてハッとしたのです。

私が俳優になりたいと思うキッカケとなった「6羽のかもめ」での黒柳徹子さんと加藤大介さんとのやり取りに感動したのも、新派の水谷八重子さんと柳英二郎さんとの演技に感動したのも、大矢市次郎さんのあの演技に魅入ってたのと同じ事だったのではないか?と思ったからです。

それは、“リアル”な「人の心」が、俳優と言うフィルターを通して芸術にまで昇華され、私の心の中にある「何か」が、それに接する事によって反応した結果なのではないか?と。

では、その何か?とは何か?おそらくそれは求めても答えが出ないものなのかもしれません。もしかすると、私と言う人間の本質がそこにあって、本能的にその実相を探す欲求に駆られていると言う事なのかもしれません。

ともあれ、今の私では未だそこが見えるほど成長はしていないのだと思います。

然し、そもそもリアルな世界を再現した演技が、そんなに感動を引き起こすものなのか?

リアルな演技の何がそんなに私をして感動させたのか?

次から次へと新たな謎が生まれるばかりです。ラビリンス、迷宮です。一生この迷宮の中を彷徨うのかもしれません。

ただ、それならば当然のこと、黒柳さんや加藤さんの様に、水谷さんや柳さんの様に、大矢さんの様になりたい!と普通なら思うはずですが、私は到底及ぶべくもない高さと怯んでいます。

一つには、挑むにしてもその場が与えられていないと言う事もあります。

と言うと「それは詭弁だ。与えられなくば、待つのではなく、自ずからその場を探して飛び込めばいい、然らずんば自ずから作れ!」と言われてしまうでしょう。

お前は、唯々諾諾としているだけで何もしていないに等しい。との謗りを受けても仕方のない事と承知しております。唯一、CMその他の広告のオーディションの場で、己の有り様を試すのみとなっているのが現状です。ただ、それが本来の主旨とあっているかどうか?いや、自分の本性がどこにあるのか?を、まず改めて考えるべきとの思いが強くなっています。