昨年12月の初めに時代劇の映画のオーディションの話が来ました。要件は「①殺陣の経験がある事。②乗馬ができる事。」でした。殺陣は、長いこと剣術と長刀をやってきたと言う自負があります。乗馬はこう言う日のために完璧ではないが練習してきました。

これまでも何回か時代劇のオーディションの話はありましたが、オーディションに呼ばれることはありませんでした。今回も結局お声はかかりませんでした。

ですが、今回は「これで良かったのだ。」と思いました。そして、今後は殺陣のシーンがある時代劇のお話は全て断る事にしようと思いました。

これまでは、

殺陣は実際の武術とは違うから、武術の上ではおかしい、あり得ないと思っても、シーンの中で与えられる殺陣に武術を持ち込んではいけない。殺陣は殺陣としてやるべきだ。と思っていました。

だから、 

殺陣のシーンがあれば、割り切ってやれば良いと思っていました。自分の中で、それは受け入れられると思っていたのです。

然し、改めてそれはできない、間違いだと気付いたのです。

とは言え、そんな拘りを持つ事自体、俳優としてのプロ意識に欠けるのではないか?そう言われても仕方ないでしょう。

それこそ前回のブログで書いた、45年前にK先生が言われた「君は自意識が邪魔して、俳優には向いていないみたいだね。」の言葉通りになった訳です。

ただ、武道に携わるものとして、そこをいい加減にするわけにはいきません。

やはり、俳優に向いていないのかもしれません。

殺陣(たて)は時代劇の中の格闘シーンの為に、踊りのように振りを付けられるものです。そして、実際の闘いのように見せるのです。

けれども剣術や剣道を稽古する側から見ると、疑問に思う事が沢山あります。実際の戦闘の場であのように動くだろうか?動けるだろうか?と思うのです。

例えば、主人公を強く大きく見せる為に、剣を大きく振りかぶってから、打ち込むと言うようなシーンがありました。その様に振りかぶったら、すぐさま突かれてしまいます。その他にも切られ役の人がわざわざ斬られに行ったりとか、一瞬ですが斬られるのを待っていたり、シーンの流れの中では一瞬のうちに過ぎてしまいますが、それらは実際の戦いの場であったら、あり得ない動きとなります。

何故なら、双方とも互いに命をかけているからです。生命がかかっているからです。

また、時代劇ではあまり小太刀(こだち)を使った殺陣は出てきません。小太刀と言うのはあまり馴染みがない言葉だと思いますが、侍が大小二本の刀を腰に挿しているのを見た事があると思いますが、その小の方の短い刀を言います。刃の部分の長さが大体八寸〜一尺(25センチ〜30センチくらい)のものです。その短い刀を使って闘うシーンはあまり出てきません。

恐らくは、小太刀を殺陣にするのは、見栄えが悪いとか、小刀と大刀との立ち回りで魅せる形を組み立てるのが難しいと言う事じゃないかと思います。

本来の小太刀の技と言うのは、独特の動きと技が必要となります。なので、小太刀の稽古をキチンとしていないと立ち回りの振りを付けるのも難しいからではないのかなと思います。

ごく、たまに小刀を使った殺陣が出てくるシーンもありますが、構えからして残念に感じるものが多くあります。

とは言え、映画でも、ドラマでもカッコ良く映った方が良いのでしょう。

と言う事は、もしそのような撮影に呼ばれた場合、どの様な事になるか?

自分では、全く納得のいかない形でも、言われた通りにそれをやらなければならなくなるのです。

納得がいかないと言う事はどういうことか?

それは、ただ武術の技とは違うと言う事をいっているのではありません。

剣術にしろ、長刀にしろ武術は一つ一つの技の内に

”生き死に”がかかっていて、一瞬の「間」の生死の別れ目を体得するものだからです。

武術ではほとんどの場合、先生の立場の人が倒される側、負ける側の動きを行い、教わる方の立場のものが、勝つ側の動きを学ぶと言う形で稽古をします。師となる者が、勝ち方を教えると言う形の稽古です。

以前、長刀の棒合わせの中のある「形(かた)」を教えている時、私が棒で何度か打ち込みをする所を、教わる方の長刀が、打ち込んでくる棒の下を掻い潜って下から、棒を繰り出す私の腕を下から切り上げて勝つと言う技だったのですが、私の繰り出す棒が、先に弟子の頭の上に届いてしまうと言う事が何度かありました。初めのうちは何度かそうなります。

もし、実際の戦場で行うように打ち据えたら即死です。稽古ですから、勢いも抜いて、寸止めで行うのですが、教わる方は、それを何度か繰り返して、打たれないように速さと間の取り方を覚えて行くのです。

昔の戦場で培われた武術と言うものは、そのように死と向き合うものなのです。

そして、一つ一つの動きには、その意味と目的が相手の動き、自分の動きとも連携し、大変重要な意味が含まれているのです。

殺陣で派手な動きで、カッコよく立ち回るのを本物と見られてしまったとしたら

生き死にがかかっている、

本来の動きの底に流れている

“人の心”が顧みられることは決してないでしょう。

芝居と現実を混同するのはおかしいと思われるかもしれませんが、生き死にを意識した中で稽古している者にとって、簡単に割り切れるものではありません。

ところで、ロシアで生まれた近代的な演技技法のスタニスラフスキー・システムをアメリカに持ち込んで多くの名優を育てたリー・ストラスバーグという人がいます。彼が求めたのはリアルな演技と言うものでした。殺陣を考えた時に本当のリアルとは何だろうか?と思わざるを得ません。

それでも、やはり私は向いていないのかもしれません。


さて、当初から

私の書いたものを、誰かが読むと言う事など全く想定しないで書いてきました。

その為、今までは全く独り言として書いていましたが、万、万が一でも読む人がいたら、いや読んでくれる人がいたとしたら、今のままでは失礼にあたると思い、今回は本当に関数Y氏への手紙として書きました。