ミスターヒデオのブログ

ミスターヒデオのブログ

子供の頃から両親がいない人たちのためのブログ
集まれ~孤児たち

Amebaでブログを始めよう!

子供の頃から両親がいない俺にとって、今までどんな影響を及ぼしてきたのか。


そんな事を考えると、今、両親がなくて育ってる子たちは、どんな思いなのか、切なくなることがある。


俺自身は今幸せである。一つは21歳の時に、イエスキリストと出会ったからだ。


そして今は娘を持った一児のパパである。


1人さみしく暮らしてる人にとって、これは十分幸せである。


しかし、私は満足していない、沢山のこころの傷が癒された私にとっては


次のステップは、両親がいない人たちを助け、幸せになってもらわなければ、世の中は平等では


ないのだと思ったからである。


私の幸せの根源は、命は、出所は、ジーザスという十字架にかかった神である。


この神を信じるか、信じないかは人の選択でもあるが、たった一つ言えることは


このジーザスである神は、孤児みたいな俺たちを愛してくださっているのだ。


この愛で、いままでの私を支えてくださっています。


そんな愛であるジーザスを学び、共にセッションしていきたい。

久しぶりのブログで、久しぶりすぎる。


そして、おやじつちおは結婚してる。


さらに、俺、もうすぐパパになる。


奥さんの料理がめっちゃうまい


奥さんにはブログしてるの知らない。


というか、誰も知らない。


誰が観てるか。


観てないな。


で、何書くんだって?


あ、そうだ、本質を忘れてはいけない。


ゴスペルメッセージだ。



ブログを原稿代わりにしようか?


まあそれなら、wordのほうが早いか、


ブログだと修正できないし、間違って聖書を解釈してたら、


大先生に怒られるだろうし。


その前に誰も観てないからいいんだろうけど。


誰もみてないから愚痴を言おう。


でもここで書いてどうするんだろう。


わからないから、とりあえずまた明日考えようかな。


ばいばい


ばいばいも自分に向って言ってる。なんだか変だ。










神は信じられないけど、人は信じていきたい。うん、いいでしょ。
また、人は信じられないけど、神様だけを信じる。
これもありでしょ。
果たしてどちらが正解かは、はっきり言えばわからないが、こういう見解がある。

近くにいる家族や友人は信じるに値するのか?それはやはり、子供の頃から両親に頼りきり、生活し、助けてもらったりしてきた。もちろん子供は親をかんぺきに信じきっているのである。
しかし、大人になると信じる対象ではなく、頼る対象になり、完璧には信じなくなる。
昔、クリスチャンの友人で俺は神だけを信じ、人は信じないとよく公言していた友人がいた。この一言で、そうとうこいつは、世の中で社会で友人達から裏切られてきたのかなと感じてしまうものである。もちろん沢山裏切られてだまされてきたのだが、彼にもそれなりに友人達を信じて、信頼してやってきたのだ。しかし、見事に裏切られてしまって、人は信じず、神を信じるとなっていったのだ。果たしてこの信仰で、これからの人間関係をうまくやっていけるのかと思うのだが、やはりうまくはいかないのである。それはなぜか、家族に見捨てられ、友人達から裏切られ、見えない神を信じるというのが、生きててどれだけ難しいか気づかないのだ。そもそもなぜ人は人を信じやすいのか?それは、バイブルにも書いてあるように、人は神に似せて造られているからである。じゃあ神は人を信じているのか?神が人を信じるなんて、なんかぎこちないような気がするが、神は人を信じるくらいに頼りきりたい任せたい思いがあるのである。それは、バイブルにある預言者達、偉大な人物までに至り、最後の最後で神の子、イエスキリストを世の中に投入してきたのだ。
何度も地上に神の御心にかなった人を送ったが、何度も裏切られ、見捨てられ、しまいには十字架に吊るされ、侮辱され、最高の刑罰を人が人に、人が神にしたのである。何度も神は自分が造った人を信じてきたであろう。しかし…
神は人を信頼したい思いがあり、信じていきたいくらい、愛に燃え、嫉妬するくらい気持ちがあっるのである。もし人が人を完璧に信じなくなってしまったらどうなるのか?例えばこうだ、私はあなたを信頼もしてないし、信じてもいない、でも私と一緒にいてください、そんな事言われたらいるだろうか?いるわけない。人の信頼は少しづつ築いていくと信じるに変わっていくことがある。彼なら大丈夫だろう、彼女なら任せても大丈夫だろう、少しづづ信頼を重ね、絆にかわり、信じていくものだ。しかし、途中の信頼でミスをしてしまうと、すべてが崩れ去るのである。だから、人はもう信じない、信頼しないと変わっていくのだ。そして極端に、完璧に信じないと傷を負ったような兵士になってしまう。
しかし、私はこう思う、バイブルにあるヨセフと言う人物は兄弟に裏切られた時、どんな傷を負ったのだろうか、果たしてその後は、誰も信用できないくらいになってしまったのだろうか?そんなわけない、そんな人が王から素晴らしい仕事を任されるわけがないのだ。彼は信頼すると信じるが何か凄く理解していたのかもしれない。近くにいる友人を信頼し、信じてあげることは、その友人にも力をあげることができると思う。リーダーは相手を信頼するべきである。そうすると、信頼してくれてるから、私は裏切れないだとか、信じてくれているから私は頑張れるだとか、男女関係においても、彼が信頼してくれているから、彼女が信頼してくれているから、それで浮気はできなくなる。するやつはするのだが、そして人間だからしょうがないで終わってしまう。そうならないためにも、信頼するとは信じるとは、これについて良く理解しておく必要があるのだ。
自分が裏切られたくないから、傷を受けたくないからと言って、信頼せず、信じてあげないような人にはなるべきではない。神だけを信じるのは楽な事だが、神を信じたら人に何をするべきかの視点にチェンジしていけばいいのである。
神を信じるなら、まずは神が裏切られてきた事件をすべて見るべきだ。それに比べれるとかなり楽になってしまう。神はすべて背負ったのだとわかるだろう。みなさんは人を信頼して信じていくことができますか?それとも神だけのみ信じて自分はリスクを負いませんと生活をおくりますか?
私は裏切られても、人は信頼します。騙されようが、そこに信頼と時間を割いて事は無駄ではありません。信頼することにより、確信にかわり、相手に力を与えることでしょう~~~