今年も総括の時間となりました。
ご無沙汰しております桐野安生です。
皆さんにとって2022年は、どんな年だったでしょうか?
まだまだコロナ禍で、不安定な日々を過ごしている方も多いかと思います。
自分の様に社会の底辺におりますと、この国の疲弊を肌身に感じます。
冗談ばかりのコメディアンを真面目にさせてしまうのだから、日本の状況はよろしくないのでしょう。
そして世界を飛び交うニュースも、戦争、貧困、異常気象と暗いものばかり。
ドーナツが二つあるなら、一つを分け与えれば良いのです。
それだけで世界は良くなる気がします。
まあこんな会話すら「芸人が思想を語るな!」と叩かれかねない時代なので、これで終わりにしますが、いつのまにか息苦しい世の中になってしまいました。
さて、今年の芸人としての活動は、ザコシショウさん、有ジェネ、ランジャタイ、虹の黄昏など先輩や芸人仲間から頂いた仕事だけでした。
本当にありがたい事ですが、感謝しつつも甘えてばかりもいられないので、来年は、自分で仕事を獲得していかないといけません。
ただ今年のオーディション本数が0本だったので、かなり厳しい状況ですね。
頑張らねばなりません。
そして、生活の基盤を支えるバイトですが、こちらは波乱の一年でした。
一年前からやっていた弁当屋のデリバリーは、店のオーナーが突然、給料未払いのまま消えてしまい店舗も消滅。
あてにしていた給料が無くなった為、次のバイトが決まるまで生活が大変でした。
そんな折に、芸人仲間の紹介で入ったゴミ清掃車のバイトは、情け無い話、2ヶ月で辞めてしまいました。
可燃、不燃、廃品、古紙、ビン缶、色々な現場を回りました。
仕事は、なかなかきつかったですが、基本、良い人も多かったので、やっていけるかと思ったのですが、中には人をいびるのが趣味みたいな人もいて、理不尽に何度も怒鳴ったかと思えば「お前、俺の弟子ね、俺の元で修行すれば廃品回収のプロになれるから。」と言ってきたり、とにかく気持ち悪すぎて辞めてしまいました。
ただこの経験は2ヶ月という短い間でしたが良い経験になったと思います。
なかなか清掃車で働く機会はないですからね。
頭が下がるお仕事です。
次に求人誌から選んだのが遺跡発掘のバイトでした。
東京郊外の畑へ行き、炎天下の中、延々と土を掘る仕事でした。
全身筋肉痛になりながらも、作業自体は面白かったのですが、人間関係が上手くいかず3日で辞めてしまいました。(これは100%自分が悪いです、誰ともコミュニケーションをとれませんでした。)
その後直ぐに始めたのが美術館の展示や搬入搬出のバイトでした。
こちらはなかなか面白く、地方の美術館へ何泊も出張したり、名画や一級の美術品を肌で感じて良い経験になりました。
ただ難点も多く、深夜に電話やメールで叩き起こされる事もしばしば。
明日の現場が変更になったと片道40分の現場から片道2時間の現場になったり(作業員病欠の為)それはご時世的に仕方ない事なんですけど、とにかく現場変更が多すぎて、前日から振り回されっぱなしでした。
そして一番の問題は、給料明細がもらえなかった事です。
実は、弁当屋のデリバリーも給料明細をもらえず、結局、不透明なまま逃げられてしまったので、このバイトも怪しいなと。
そして、何かと会社の都合の良い様に働かされていた気がしました。
ある時は、早朝4時に出発して往復4時間かけて、4000円ぽっち(実働4時間だからとのこと)の仕事だったりしました。
実働が4時間であっても、8時間以上拘束されている訳ですから、その分の補填が無いと、誰も働かないと思います。
今の社会はバイトを良い様に食い物にしている気がします。
とにかく頼み込んで、一度だけ給料明細をもらう事が出来たのですが、やはり自分の計算より少なく、出張費の計算が合わない為、信用出来なくなり辞めました。
まあこんな感じで1年間でここまで職を転々としてしまった自分は、社会不適合者なのかもしれません。
それとも単純に我慢が足りないだけなのか?
もっと大人になって踏ん張るべきだったのか?
とにかく自分は生きづらい生き方をしてるなとつくづく思います。
こんなバイトの話をつらつらと書き並べて、何がしたいのか?と思われるかもしれませんが、このブログは、あくまで個人的な日記の様なものなのでご了承下さい。
まあなんだかんだありまして、現在は、原付を買ってウーバーイーツで生計を立ててます。
毎朝6時半に起きて、決まった時刻にスタート。
1日のノルマも決めて計画的にやっているので、生活は、次第に安定してきていると思います。
ただ、配達依頼が少ない日もありますので、不安定な事に変わりはありませんが。
Uberの面白いところは一件配達するごとに、どんどん知らない街へと飛ばさせて行く事です。
その飛ばされた先で、次の依頼を受けてまた飛ばされていく。
そうやって都内を北から南へ南から西へ西から東へ、ぐるぐる巡ります。
ここ最近は中目黒をよく回りました。
去年の1月2日、間もなく一年が経つ訳ですが、ちょうどこの中目黒の街を平賀淳君と歩きました。
最後は中華屋で飲みましてね、その店の前を通る度にあの晩の事を思い出します。
山岳カメラマンをしていた平賀淳君は、今年の5月18日にアラスカの地で滑落事故に遭い亡くなってしまいました。
訃報を聞いてから今日まで、平賀の事を思い出さない日はありません。
それだけ大きな存在でした。
今年は、平賀との思い出を巡る一年となりました。
学生時代の友人達と久しぶりに会って、平賀の事を語り明かしたり、思い出の地を巡ったりもしました。
しかし、学生時代に平賀のアパートがあった登戸の地はすっかり変わってしまいましたね。
僕の記憶も曖昧で、多摩川沿いの景色で覚えているのは、この2本の木ぐらいでした。
まあ20年以上時が流れているのだから仕方ありません。
残念ながら平賀が住んでいた風呂無しアパートチロリアンハウスは解体され、スポーツジムになっておりました。
しかし、その隣にあったらーめんはうすは健在でしたね。
よくここで平賀とスタミナ定食を食べた思い出があります。
しかしこの日は運悪く休業日でした。
たまに思い出すんですよね、平賀と食べたスタミナ定食の味。
数ヶ月後、登戸へ用が出来たので、再度らーめんはうすさんへ行って来ました。
しかし、店内へ入ると記憶と全然違うんですよ。
以前はカウンター席だけだったと記憶してましたが、奥に何席もあったり、記憶よりもだいぶ広いんですよ。…改装したのかな?
で肝心のスタミナ定食ですが、これも記憶と全然違うんですよ。
ボリュームあって、美味しかったのですが、見た目も味も別物でした。
以前は、鉄板皿にニンニク醤油で炒めた肉と野菜がのっていて、更にその上に卵の黄身がトッピングされていたイメージでした…別のメニューだったのかな?
それとも20年前とメニューが変わってしまったのか?
↑こちらのスタミナ定食は、味噌味でした。
平賀との記憶を巡る旅は、あやふやなまま終わる事もしばしばですね。
あいつが生きていれば、また笑って答え合わせも出来たのですが。
とにかくUberの様に同じところをぐるぐると回ってばかりもいられないので、来年は前進出来る様、頑張ります。
あと笑かしたい人の顔を、明確に持たないといけませんね。
最近、そこがあやふやだった気がします。
今一度、情熱を!!
本年は大変お世話になりました!
来年もよろしくお願い致します!
皆様、良いお年を!