嬉し恥ずかし地球旅行(仮)

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「ひとつ残らず きみを悲しませないものを
きみの世界のすべてにすればいい」



私は峯田和伸が嫌いだ。
銀杏BOYZ、いや、峯田和伸という人物を好きになった人は、
一度はこんなセリフを吐いたことがあるのではないだろうか。


私も峯田和伸が嫌いだ。
そのきっかけはたくさんあった。


彼のやっていることを虚構に感じたこと。
彼が全く作品を出さなくなってしまったこと。
彼のことを虚構だと指摘する友人に会ってしまったこと。
彼を通して知った音楽が増えていくこと。
彼を通して好きになっていった人たちが彼から離れていくこと。


そのたびに、私は彼を断ち切ろうとした。
これは、通過儀礼だと思っていた。


「知っているかはわからないんですけど、エルレガーデンが好きです」
と話しかけてきた年下の少年を避けていたのと同じように、

「土屋タオちゃんみたいな本格派女優になりたい」
と目を輝かせている女子高生に対して、
「竹下景子を本格派女優って呼んでいるおばさんってみたことねえな」
と思うのと同じように、

それ自体が自然な感情であり、
私がその形で完成したものだと思っていた。


しかし、2014年に発売された「ひかりのなかに立っていてね」を聞いたときに、
また、新しい感情が芽生えてきた。

銀杏BOYZは、先のアルバムで永らく共にしてきたオリジナルメンバーを
3名も欠く形になり、実質、峯田和伸のソロプロジェクトになった。
この出来事に対して、
巷では、「峯田終わった」とか、「銀杏、解散して悲しいね」といった声が響いていた。


私にとって、銀杏BOYZは当たり前のようなものになっていた。
活動はしないかもしれないけど、ずっと消えないモニュメントのように感じていた。
それが、なくなってしまうかもしれない。


その瞬間から、このアルバムは、当たり前の一枚ではなくなっていて、
私の青春というキャンパスに、最後の一筆を入れるものになった。

事実、このアルバムが発売されて以降、私が音楽に没入することは減った。


話がとっ散らかったので、本題。
銀杏BOYZが2016年、4月12日に新曲「生きたい」を発売した。

本作は、「人間」、「光」に続く3部作の最終作。
出ないと思っていた。

「カムイ伝が3部作だって構想があるらしいよ」
ということと同じくらいに、「へえ」って聞き流していたことが、まさか本当になるとは。


TSUTAYAで、面だしされて置かれているCDを手に取り、
いまだにプッシュされるのなあ、とつぶやきながら購入した。
そのまま車のCDプレーヤーに流して帰った。

15分もの間にわたり、峯田和伸が、まるで友部正人のようなフォークソングを歌っていた。
その歌詞は早川義夫のようにキラキラとしながらもグロテスクだった。

いろいろな人の顔が浮かんできたときに、これが峯田和伸だと思った。
そして、私は、この峯田和伸がはじめから好きだったのだと再確認した。

高校生の頃の僕は、峯田和伸を狂える天才だととらえていた。
しかし、違う。
私が愛したのは、悩める秀才の峯田和伸だったのだ。
彼になりたいと思っていたし、彼と友達になりたいと思っていた。


最後にそうだな。
あなたに、あなたに、伝えたいことがあります。


私は、峯田和伸が好きだ。
見りゃわかるって?
言わなきゃわかんねえだろ。
普通ってなに?常識ってなに?
普通ってなに?常識ってなに?


そんなもんガソリンぶっかけて火付けちまえ






ここ数日(なのだと思うが)少しだけ気を揉んでいた。
恐らく「良い人キャンペーン」も終わって疲れてきたのだと思う。




転職した。
パートタイマーだった以前の仕事はそこまで嫌いではなかったけれど、実際にそこで社員として自立していくイメージも、そこで働く希望も沸かなかったから全く以て未練は無い。


それに今の仕事にはかなり満足している。なにより人間関係も良好だし、求められている事も少しは明確になって来た。明確じゃなければ聞けば良いという構造にも感謝している。
ここで身を立てたいと思ったし、いかに社長である彼を(私のという意味ではなく額面的に)お金にするかという気持ちもこれでいて結構持っている。逃げに逃げた人生の結果がここにたどり着くのなら人生自体そこまで悪い物じゃないとも思っている。




それでも、不満をこぼすから人間が出来ていない。本当にそう思う。
これさえ我慢出来れば今の状態ってかなり理想に近いとは分っていても、その「これ」が我慢出来ない。
子供なんだと思うし、実質社会人経験がある訳ではないのも未成熟な一因なのだろう。
あとは、「声が大きい奴が人生の得をする」という昔から分っていて自分では出来なかった事を、この会社なら出来ると思って、あてつけのように行っているのも考えられる。(やはり子供なのだな)



もし、この駄文を読んでいて、ましてや感想まで持ってくれる人が居るとしたら、あなたはきっとこう思うだろう。
なら、その私の我慢出来ない「これ」ってなにさ。




よしわかった。お答えしよう。正直言ってあまり胸を張って言えた事ではないのは考慮した上で大声で言う。












「友達が欲しい。」



あえて、一番幼稚な言葉を使えばそれで合っているのだと思う。
私は昔から自分の満足度だけでは「私の中のポケット」を満たせないタイプだった。
それは答えはいつも他人の中にあるから。他人の映し出す物が自分だと本質的に分っているから。
自分の出来た事だけでキミを笑わせられなかったら、私はなにも出来なかった事と同じなのだ。




今はそんな充足感を得られる状況ではないし、第一私自身を使い切れている感覚がない。
それに、もっとそれを施すべき相手が居るんだよ。確かにそうだ。それも理解した上で我慢出来なかったから、稚拙で目も当てられない。





(もちろん仕事量が減ってきた事もあるが)大石くんに聞きたい100の質問なんてくだらない事をしてるのは、そんなばかばかしい気持ちからスタートされている気がしてきて、ますます大石くんならびに、まわりの人には頭が上がらない。(でも大石くんにはあと90個以上聞きたい事が待っているのは事実だし、彼にはそれくらいの事をしたいような男でもある)




今日の一冊てなわけではないが、私の好きな漫画の話を少しだけして、この日記を終わらせたいと思う。




淀川ベルトコンベア・ガール 1 (ビッグコミックス)/小学館

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村上かつら/淀川ベルトコンベア・ガール




「友達がほしい。」
淀川大橋の真下で電車がすれ違っている間に願い事を叫べば、その願い事が叶うおまじない。
16才のかよちゃんがその迷信に対して、叫んだ願い事は友達をくださいというものだった。


自分の常識だと思っていた事が普通じゃないと知った女の子は、同年代の高校生たちが鼻で笑うようなおまじないにもすがった。叫ぶほどに彼女を苦しめた「友達が居ない」という事はどういうことなのか。痛切なまでに彼女を傷つけていく「友達」というファクター。
村上かつら先生はいつも、私たちが言いたくないから言わなかったことをピンポイントで指摘してくる。
さゆり一号では男性の身勝手さを、hatchでは何かが終わる事への畏怖を私たちの目の前に押し付けてくる。




かよちゃんにとってのそれまでに求めた友達とは、誰とでも出来る事を「私だからしてくれる」という承認欲求の現れなのかもしれない。





こんなことをブログで書いてしまう私が、一番承認欲求が強いのだという、よく出来てもいないお話でした。
「覚悟は決めたはずなのに、彼女のその言葉を聞いただけで僕の腰はくだけてしまったかのように立ち上がれなくなった。それはとても残酷なことだけれど事実を受け止められない僕は彼女を捨ててしまった。それ以来、会っては居ません。」




久しぶりにお笑いのDVDを見た。
東京03  10周年記念講演『タチの悪い流れ』



実力派コント師としても名を知られ、単独ライブの動員は1万人を超えるという東京03。



そんな彼らの今作をひと言で表すなら「驚きとおしゃれに包まれた新境地」だ。



ゲストとして招いたのは、おぎやはぎの二人に浜野謙太(在日ファンク)、そしてジェントル久保田率いるジェントルフォレストジャズバンド。日替わりのゲストは山崎弘也、劇団ひとり、バナナマンといった大人数のキャスト。
まずはこれらの名前を見ただけで買ってしまう人が居るくらいだろう(実際私はバナナマンに惹かれて購入した)



内容の話をネタバレしない程度に。
生きていると変な空気になる事があるだろう?そのなかでも悪質な物がまさに『タチの悪い流れ』なのである。


そんなタチの悪い流れを誰かが管理していたとしたら?そして、その管理をしていたシステムが崩壊してしまったらこの世は一体どうなるのだろう?



そんなSFとも言える世界観に加えて、東京03が結成当初から得意としている設定「生活感の溢れる並列の関係」が織り成す日常のコントが相まっている。今までの03には感じられなかった空気かもしれない。オムニバスではなく1本2時間のお話が通ったコント。コメディの舞台に近い。



ウレロ!の舞台からお笑い界隈でも頻繁に使われるようになったプロジェクションマッピングも豪華に使用されている。それによって、よりおしゃれさが増し、古典的なジャズバンドを劇伴に使う事も作用してゴージャスなステージが出来上がっている。



私はこの世代の関東芸人のコントが好きだ。
そして、彼ら芸人たちの新作を見る度に私は考える事がひとつある。


「これによって第2のシティボーイズに近づいたかどうか」



関東のコント師は皆、シティボーイズの影響を受けている。
ファンを公言しているラーメンズを初めとして、バナナマン、おぎやはぎ、エレキコミック、キングオブコメディ、そして東京03。今でも舞台を愛し、ライブにこだわる芸人たちの背中には何処かでシティボーイズの影が見えるのである。
昇華の仕方はそれぞれにしろ、スタイリッシュであり、ナンセンスであり、アバンギャルドでシュール。それでもちょっとポップ。そんな大好きだったシティボーイズが見え隠れする。



そして、今回はっきり言える。
東京03は第2のシティボーイズ候補として一歩頭が抜けた。



今まで、長編コントはバカルディ時代から得意としていたさまぁ~ずが一番だと思っていた。
そして、コメディ舞台としては小林賢太郎がプロデュースするKKPの独壇場だった。


そこに東京03が今回打ち出した長編コント。


これは今までの03とは違う。


彼らの自然な雰囲気だけでなく、ボタンのかけ違いのように絡み合っていくストーリー。
そして、物語が後半に入るのに従って段々とこんがらがったヒモがほどけていくような感覚が心地よく、最後には「あぁ終わってしまったのか」の言葉とともにまっすぐ伸びた道が広がっている。
そんなライブだった。



この年の春に行われたバナナマンとのユニットhandmade worksライブから片鱗を見せ始めた構成力の向上。これに尽きるかもしれない。




このスタイルを貫くようになったら確実に東京03は第2のシティボーイズになる。
ただし、シティボーイズの合い言葉でもあった「テレビで稼いで舞台で使う」は東京03にも出来るのだろうか。


それだけが心配だ。私が心配することではないけれど。