ブログに訪れてくださり
ありがとうございます(^-^)
さてさて
岩手の事をもう少し。
祭峙山のお宿
『かみくら』さんから少し走ったところに
骨寺村荘園遺跡、というところがあります。
(今のよび名は本寺(ほんでら)地区。)
太古の昔800年前から
その原風景をとどめている、
山に囲まれた、美しい谷にある場所でした。
骨寺
というお寺があったとされていますが
鎌倉時代の頃に
廃寺になったようです。(寺跡などは無い。)
骨寺村交流施設
(おみやげや施設案内所などある)
という館内にて
ビジョンシアターが無料で観れます。
遺跡の案内盤のところに
写真と説明がありました。
ここから、
骨寺と中尊寺との関係性について、
書いていこうと思います。
1126年 3月14日中尊寺が完成しています
中尊寺を建立した、
藤原清衡 (ふじわらのきよひら)
の平和への強い思いを引き受け
天台宗の僧
自在房蓮光(じざいぼうれんこう)は
5300巻にものぼる、一切経を
8年かけて完成させました。
藤原清衡は、
自身は78歳という長寿を全うしましたが
父や妻子を戦で亡くし
この世の地獄を見てきました。
戦の続いた東北地方に、
仏の教えによる
平和な理想社会を実現しようとしたのです。
藤原清衡が詠みあげた言葉
⬇
この鐘は
あらゆる世界に響き渡り
誰にでも平等に
苦悩を消し去って
安楽を与えてくれる。
攻めてきた都(みやこ)の軍隊を
蝦夷(えみし)とさげすまれ
責められてきた
この地の人たちを
動物や鳥 魚や貝に至るまで
この、陸奥(みちのく)にあって
心ならずも命をおとした霊魂を
浄土に導いてくれますように 。
と藤原清衡の言葉が遺されています。
これをビジョンシアターで見ていて
涙が出ました
中尊寺建立からわずか数年後
源頼朝(みなもとのよりとも)軍に攻められ
骨寺村の人々は村を離れてしまいます。
しかし、そこに一人の僧があらわれ
(中尊寺・経蔵別当だった 心蓮)
責めてきた源頼朝に
骨寺村の存続と
一切経の蔵がおさめられている、
中尊寺の存続を嘆願してくれました。
これを受け頼朝はその願いを聞き入れ
骨寺村の範囲を定め
存続を許可した、と云われています。
中尊寺・金色堂。
ビジョンシアターの一部。
骨寺村で、
これらを見聞きしたあと
ここの遺跡のひとつ
若神子社(わかみこしゃ)へ向かいました。
この、木のこんもりしたところが
空から見た、若神子社です。
小さな小さな、見落としそうな、
白い看板を一緒に回ってくれたYちゃんが見つけてくれて入っていきましたら、、、
なんと、
民家の中でした
え? え?
と、言っているうちに家からおばあちゃんが、
『どーしたぁ?』と、出てきてくれて
若神子社に、
お詣りに行きたいのですが、、どうやって行くかわからなくて、、、
と伝えたら
行き方を教えてくれて、
『その靴じゃぁドロドロになっから』と
私たちに、長靴をかしてくださいました
本当に、知らない土地で、初めて会うのに
こんなに親切にしてもらって
二人して、泣いて、感謝して
向かいました。
後からお話を聞くと
おばあちゃん達夫婦は
若神子社を管理されている方だったのです!
お互い、帰りの時間がおしていたけれど、
ここまで学ばせてもらって、
ご縁をいただいたのだから
(一切経の納められてる)中尊寺、
行っとかなきゃと
行って参りました
金色堂も、金ピカピカで、
キレイでした~🎵
にしても、広い敷地だったなぁ~
その日は秋晴れの真っ青な空と白い雲
きっと、また訪れたい!
そして長靴のおばあちゃん夫婦に
お礼もしたいなぁ
これを鳴らすと
ひめちゃんが、おたけびをあげるので
笑えて笑えて^_^;(^_^;)
岩手、そして東北(*^^*)
また、行きま~す♪ヽ(´▽`)/
最後までお読みくださり
ありがとうございます(^-^)