基本的に学校で学んでいる歴史は
政治、戦争史が中心で勝者の側から観た歴史
を通説としています。
例えば長篠の戦
織田・徳川軍vs.武田軍
で勝者は織田・徳川軍
織田軍の3,000丁の鉄砲隊の三段打ちや馬防柵で
武田の騎馬隊を打ち負かした。
通説ではこういう感じだと思います。
基本的にこれらは
織田軍側の資料に基づいています。
なので武田側の資料や
中立の立場であろう資料からは
そうはいえないのではという部分も見えてきます
まず鉄砲3,000丁というのはチョッと怪しいようです。
「信長公記」の記録自体
1,000に書き足して3,000としているようです。
明智軍をはじめとして部下の手持ちの鉄砲をかき集めれば
1,000丁は可能というデータがあるので
実際は1,000丁だったのでは
という説が有力になりつつあります。
次に三段打ち
当時の鉄砲で、三段打ちって言うのは
無理があるみたいです。
鉄砲の扱いに慣れている人なら
五段打ちくらいにして
時間的な余裕がもっとできれば
可能なようですが…。
次に武田の騎馬隊
武田軍が使っていた馬は
木曽馬を利用していたといわれています。
日本固有種の馬である木曽馬は
現在のポニーくらいの体格になります。
外来のサラブレッドに目が慣れている
私たちが感じる印象とは多少異なるようです。
また、いくさでは
馬から下りて戦っていた
という資料もあるので
騎馬隊は馬に乗ったまま
戦ってはいなかったのかもしれません。
私個人の想像ですが
当時の武将のいくさって
身長150cm位の人が
20~30kgの鎧兜を身にまとって戦うわけです。
重い鎧兜を身に付けたまま
何キロも歩いて移動して戦うより
馬で移動して降りて戦った方が
少なくとも元気な状態でいくさに入れる。
元気な方か勝率は高くなるでしょうから
武田の騎馬隊強し、となったのでは
と思っているのですが…証拠はありません。
馬防柵についても
長篠(愛知県新城市長篠)での調査で
明らかになっている馬防柵は
かなり簡易なつくりになっています。
ただし、移動手段としての騎馬隊であれば
そこで足止めができれば良く
止めた所で馬から降りたところを
鉄砲でズドン、と考えれば
結構有効だったのかもしれません。
教科書に載っている歴史の通説は
基本的に勝者側から観た
そして対外国との歴史は日本側から観た史観
が中心となっています。
特に歴史は教科書に載っている事は
あくまで勝者側の歴史史観で
現在通説となっているだけで
これが絶対に正解とは限らない
という意識は
頭の片隅に残しておいて
柔軟に対応できるようにしたいものです。

本能寺の変のストーリーも
変わっていくかもしれません。