こんにちは志賀直哉ファンの皆さん、前回も言ったように今回はあの『城の崎にて』の聖地である城崎温泉に旅行に行きました。『城の崎にて』では、電車にはねられた後の養生の為に訪れた城崎温泉での体験を基に、「死生観」を主題に物語が書かれています。

 

今回の旅行で私は話の中に出てきた四つの死全てを体験する事ができました。私は、彼が宿泊していたと言われる部屋に泊まり周りを探索しました。

 

前置きなのですが、彼は事故に遭うまでは「死」というのは生きることの真逆であり自分とはかけ離れた世界にあるものだと考えていました。しかし、実際に事故にあってから死ぬという事が遠い世界にあるのではない事を実感し、死に対して親近感が湧いたと考えています。そうしてその後のさまざまな種類の死との出会いにより、彼の死に対する考え方が変わります。

 

 

あの蜂の巣はこの辺にあったのかな〜、と探してみましたが秋の気配を感じるだけでした。

そこで一生懸命想像しました。一匹の蜂の死骸の周りを生きている仲間の蜂たちが何もなかったように働き続けているさまを。上の写真は当時を描いたものです。

 

この場にいるとよくわかったのですが、あの場面では生と死の対比が描かれていたのですね。対比することで死の持つ静けさが淋しさに繋がったのでしょう。死の静けさに親しみを感じるのは、静けさが似合う秋という季節も関係しているかもしれないですね。

 

そして、彼の蜂の描写は当時の蜂の様子を詳しく書いています。このおかげで当時蜂がどのように飛んでいたのかを私は容易に想像する事ができました。さすが小説の神様と言われているだけありますね。

 

 

次に出てきた死のシーンといえば、彼が川の方へ散歩へ行った時に見つけた鼠でした。

 

私はこの旅館の女将にその場所を聞き実際に行ってみました。この鼠は、死ぬに決まった運命を担いながら必死に泳いでいたと書かれています。ここでは、生から死への移行のシーンが冷静に描かれていました。

 

また、彼は自身の体験と照らし合わせ、死がきたら「あるがまま」受け入れようと考えていましたが、実際に彼も死にそうになった時最善を尽くして生きようとしました。つまり本能的に、人も動物もその時の死の迎え方を受け入れられないという事なのです。

 

しかし彼はその迎え方が万能でありまた自分が迎えたい死に方だと信じています。そこで僕は今生きているというのは、同時に死にゆく過程なのだと実感しました。死ぬ事は絶対的でそれがあるがままなのに誰も静かに受け入れる事は出来ないのだと感じました。その両方が「あるがまま」なのですね。

 

 

この葉の場面は暗喩的でわかりにくいですが、生死について描かれているシーンです。ちなみにこの木はゆかりの地として標識に出ていました。

 

私が訪れた時はちょうど彼と同じ落葉の季節だったので、桑の木の葉が実際に落ちるところに遭遇できました。静かなまわりの中をただ一つひらひらと機械的に落ちていく桑の木の葉を見て、私も彼のように「物静かさにそわそわ」しました。

 

一見、これは葉の死に見えるのですが、本当に葉は死んでいるのでしょうか。私は風の影響で葉が地面に落ちた後、葉は栄養分となりまた木に還元されており、これは循環していると言えるのではないでしょうか。

 

ここのシーンは鼠のシーンの時に彼が生み出した「あるがまま」が具現化されていると考えられます。

 

 

その後、桑の木の近くを散策しましたが、いもりが登場した岩を正確に特定する事はできませんでしたがそのような岩を見つけました。三種の死を見て淋しさを抱いていた彼が遭遇したのは生きているイモリでした。

 

ここでは鼠の時に編み出された「あるがまま」を彼自身で壊してしまいます。好奇心で投げた石がたまたまいもりに当たってしまったのです。イモリからすると突然殺された、不意な死でした。志賀直哉自身でイモリの最高な死の迎え方を消してしまったのです。

 

志賀直哉はこの体験から、死ぬか生きるかというのは全て偶然で決まり両者は決して遠くにはいないと実感しています。それは、今私がこうしてブログを投稿できるのも、志賀直哉が車両にはねられても生きていた事も、また逆に投げた石がたまたま当たって死んだイモリも全て偶然で決まったということです。

 

つまり、、、

 

死ぬ事と生きる事は違いはそうなく、連続しており、今生きているという事は同時に死にゆく過程でもあるという事なのです。すなわち、人間というものは何かしらの使命によって生かされているというわけではなく、偶然今まで死が巡ってこなかったのだと言えるのだと思います。下の二枚の写真は、志賀直哉の死生観に対する考え方の変化の図です。

最後に、彼の死生観の根底には死んだ生き物に対する共感や同情というよりも、それらの儚い生死の暗示する人間の生命の脆さへの恐れの気持ちがあるのですね。

 

最後までありがとうございました。