「坂の上の雲」の再放送が始まった。「坂の上の雲」が産経新聞で連載されていたのは、確か昭和46年か47年の事だったと思う。当時赤坂の中華料理のレストランのボーイをアルバイトでやっていた頃、店のマネージャーに勧められた。昭和46年の秋から昭和48年の秋まで断続的に働いていた。有名人に出会ったのは、ほぼこの頃である。店にはサラリーマンの他に政治家や芸能人、皇族まで来店していた。汚いところで、こんな所で高額の料金を取るのだなと思った。場所代とも思ったが、料理の方も美味しかったようだ。私は食わず嫌いだったようであるが、肉料理が駄目で、店で出る料理は何かの肉が入っているので、慣れるまでは大変だった。10時から17時までの7時間だったが、食事が2食出るのが魅力だった。時給は200円だった。後に250円に上がった。メニューが読めるようになったからと聞かされたが、本当だったかどうかはよくわからない。

 産経新聞の夕刊だったと思うが、夕方から忙しくなるのだが、その前の開店休業のような状態の時、マネージャーはパイプをくゆらせながら新聞を読んでいた。調べてみると昭和43年から47年まで続いた、長期連載小説だったようである。私は昭和46年に上京したので、(インテリというのはこういう人を指すのかな)と思っていた。英語はもちろんの事、中国語も広東語も北京語も話していたようである。私は全然わからないので、そうなのかなと思うばかりである。その他東南アジア諸国の言語は大体聞き取れると言っていた。話によると東京外国語学校に首席で合格して入学したらしい。司馬遼太郎にはシンパシーを感じていたのかもしれない。私は17時までだったので、夜の準備に忙しかったので、昼食後は夜の宴会の準備をしたりしていて、夕刊を読む暇は無かった。まだ大学入る前の浪人時代である。高校卒業して4年、大学を卒業して1年の浪人時代がある。今は退職後の浪人時代と言ってもいいのかな。姉に言わせると、「退職して一銭も稼いでいない。稼ぐどころか投資に失敗して大損しただけではないの。少しは稼ぎなさいよ」と言われるのだが、投資に失敗してからは残りのお金を減らさないことを目標にしている。その後腰を痛めて歩くのも不自由しているので、今度は「病院に行って要介護か要支援の介護認定を取りなさいよ」と言ってくる。介護保険料を取られるだけ取られて馬鹿らしいということらしい。基本誰の世話にもなりたくないので、放っていて欲しいが、なかなか身内はそうはいかない。今思うとあの4年間の浪人時代が一番青春時代だったような気がする。その後私大の夜間に通うようになったが、何だか辛抱ばかりしているような気がする。

 「坂の上の雲」は連載中はほとんど読んでいなかったけれど、その後司馬遼太郎の小説はかなり読んだ。「司馬史観」とまで言われた歴史小説もかなり読んだ。「坂の上の雲」はNHKで大河ドラマ並に、それ以上のお金をかけて制作したと言われていた。今回の再放送では45分の26回放送ということらしい。まだ2回しか見ていないが、違和感を感じることが多かった。 

 何故だろうかと考えた。いわゆる司馬史観に疑問を感じるようになったからであろうと思った。明治という時代は、私は夏目漱石や森鷗外などの小説から入ったからなのか、決して良い時代に思えなかった。司馬遼太郎の作品では「燃えよ剣」で、新選組の再評価が生まれたものと思っている。TVドラマにもなり、土方歳三ブームを起こした契機になったと思う。

 歴史でIFは禁物というが、幕末、度重なる地震もなく、薩摩の島津斉彬、水戸の徳川斉昭、佐賀の鍋島直正、越前の松平春嶽などがずっと表舞台で活躍したら、日本はどうなっていただろうか。不平等条約も結ばなくても済んだかもしれないなどと思う。老中阿部正弘の死も痛手だったな。幕臣の方に有能な人材が多かったという。要するに軍人ではなく、官僚になっていたのである。薩長がやったことは武力革命になると思う。戦争になると優秀な奴ほど先に死ぬと言われている。大英帝国の没落の原因は、第一次世界大戦で優秀な青年将校が多数死んだことによるものだとも言われている。日本でも幕末から明治初年にかけて優秀な人材が亡くなっている。優秀な人材が先に死ぬと、多くの国民が無駄死にをしてしまうことになるのである。負ける戦の指導者になって、処刑されたり、大久保利通のように暗殺されたりである。幕末において、人材豊富でも幕藩体制そのものが機能不全に陥っていたものと思われる。凡愚な上役がいたら、優秀な人材がいくらいても、適材適所と言いながら、不適切な人事が横行するのである。まあそうなる運命だったのだと言ったら、歴史研究のかなりの部分が無意味化するであろう。